書評集
諏訪哲史『アサッテの人』
この小説がメタフィクションであるのは、何も、小説の中にその小説自体への言及があるからではない。そのようなメタフィクションなど今や陳腐であろう。この小説がメタフィクションであるゆえんは、この小説が小説らしくもないくせに小説として提示されている点にこそある。
この小説は、凡庸さや定型から逃れる「アサッテ」の思想によって、かつて吃音を持っていた「叔父」という人間が観念的に解体させられる。「叔父」の振る舞いは、彼の手記や作者の論評によって、観念的に説明されつくされ、そこに生身の人間、すなわち観念に対する抵抗や余剰となるものが消えてしまうのである。
だから、作者が語るように、通常の小説ならば「叔父」の外面の描写だけで終わるべきであった。そこにある異常さを、ただ異常さとして提示し、「叔父」のそのままの在り方を、思想に還元することなく、思想だけでは済まないものとして描くべきであった。
ところが、この小説は、本来なら小説に欠くべからざる、観念に対する余剰や抵抗、つまり人間らしさを「叔父」から奪ってしまい、「叔父」はもはや一つの思想によって操られる観念の構成物でしかない。そのような文章を、それでもなお「小説」として提示してよいのかという問題意識、あるいはそのような文章を小説として提示することによる小説概念の破壊、それこそが、この作品のなしえていることであろう。