「憎悪と寛容の果て」
「どこだ……ここは」
ここは何処なのだろう。暗い。俺は浮いているのか……? いつから居るのだろう。全く思い出す事が出来ない。少し冷静になる為に、記憶を遡って辿る事にしよう。
――まず俺は、ここに辿り着く前、男に会った。そう、恐らく男だった。正確には、逆光で影の様なものしか見えなかった為、姿形はよく判らない。しかし、声は男だった。なので、男だったのだと思う。
その前は……。そう。暗い道の様な所だった。蛇行した道の前だった。そう。そこを進むと、男が佇む四畳半程の空間に辿り着いたんだ。
その前は……。屋上? そうだった。俺は絶望に打ちひしがれて。そう。この屋上から羽ばたいたんだった。
でも、何故俺はここから羽ばたいたんだったっけ? それが思い出せない。絶望って何の事だったのか……。だめだ。思い出せない。何か大切なものを失った様な気はするのだが、それが何か分からない。
俺の大切なもの。幸せな生活。日常。当り前の毎日……。
――そうだ……。妻だ――。
思い出した。俺は妻を失ったんだ。
あの朝の妻と俺のやり取りは、全く普段と変わらなかった。そういつも通りだった。
「じゃあ、行って来るね。ちゃんとお米研いで炊いといてね。後、十八時にお迎えヨロシク」
こう告げて妻はパートに出かけて行った。たまの休みにも関わらず、職場まで送れとせがまれ、それは何とか断ったが、面倒な用事を押し付けられた俺は、嫌々
「おう」
と応えると、妻を送り出し、いそいそと布団に戻った。もう一眠りしようと言う魂胆だったからだ。
何時間眠ったのだろう。俺は、ふと眼を覚ました。
「やっべ! 米研いでねぇ!」
おれは布団から飛び起きると、時間を確認しようと、枕元の携帯電話を開いた。
「ん? もう二十一時かぁ……。ん? ヤバっ!」
俺は、妻を迎えに行く時間を、とっくに過ぎていた事に気づくと、バタバタと身支度を始めた。しかし、ここで異変に気付く。いつもなら、ある筈のメールが無かったのだ。その代わり、十三件の着信履歴が残っていた。
胸騒ぎがした。
俺は妻の携帯に電話を掛ける……。出ない……。もう一度掛ける……。やはり出ない……。やけにコールが長く感じられる。再度掛ける。
「もしもし」
出た!
「ゴメン! 今何処にいるの? まだ仕事?」
この俺の問い掛けに、
「こちら、警察の者ですが、もしかして旦那様ですか? 何度も着信を残したのですが、出て頂けず……」
よく意味が分からなかった。何故妻の携帯に警察の人間が出るのか。俺は状況を飲み込めていないままだが、相手は構わず続ける。
「本日出勤途中、奥様が交通事故に遭われまして……。只今病院なのですが、至急来て頂けませんか?」
俺は、悪い冗談だと疑いたい気持ちと、絶望的な思いが入り乱れたまま、電話の主が伝えた住所を目指した。
病院に着き、案内された場所は病室では無かった。そう。安置されていたのだ。ほぼ即死だったそうだ。頭の中が混乱で占められていく。周りで状況を説明する警察官の声が、反響している様で、全く頭に入って来ない。まるで、部屋が揺れているかの様な感覚に囚われて行く。
「……は神崎雄二と言う男です」
しかし何故か、警察官の発するこの言葉だけは、はっきりと何の迷いも無く耳に入って来た。
「事故の加害者は、神崎雄二と言う男です。三十二歳の会社員です」
警察官が言うに、相手は事故後、救命措置をとり、明らかな過失も無い等の理由から逮捕はしていないとの事だった。
「妻を轢き殺した人間が、のうのうと暮らしているんですか!?」
俺は信じられず、思わず警察官に掴みかかる。しかし、どうにもならない事を知り、俺は絶望を味わった。そして、ふらふらと俺は霊安室を出ると、屋上に辿り付いていた。
「今から俺も行くよ」
そう告げると、俺は飛び降りた。痛みなど感じる暇も無かった。
気が付くと、蛇行した道の上に俺は立っていた。そこを進むと、狭い部屋に辿り着いた。そこはとても眩しく、その中に人影の様なモノが居た。そしてその影のようなモノは、
「おやおや。ココに人間が来るとは珍しい」
そう告げた。
「ここは何処ですか? あの世ですか?」
こう問う俺に、
「いやいや。違うよ。ここは死ぬ運命では無かった人間が行き着く所だよ。つまり、死んでも、行き先の無い者が辿り着く場所さ。故に、人はここを“時の最果て”と呼ぶがね。まあ、君は実に運が良い。ここは、滅多に来られる場所ではないからね」
こう答えると更に続けた。
「にしても、誰も君が死ぬなんて、予定外だった様だ。つまり、あの世に君の行き場は無い。だから、もう一度、現世に戻る必要がある。ここなら、好きな時に戻り、そこからやり直す事可能だ。何たって、“時の最果て”だからね。そして、そこから、又人生を楽しみなさい。それが嫌なら、生まれ変わり、新しい人生を歩む事も可能だ」
この状況、俺はこの上ない幸運に恵まれた。
「なら、今日の朝に戻してくれ! 妻を職場まで送れば、あの事故は防げるんだ!」
必死に告げる俺に、その影は言う。
「ははぁん。死ぬ筈の人間を助けるのか……。なら、話は別だ。それには代わりの命が必要だよ。変わりは用意できるのかい? それに、次死んだ時は地獄行きだよ?」
そう問う影に、俺は迷う事無く
「神崎雄二だ」
と答えた。こいつが憎い。顔も知らないが、妻を奪ったこの男が俺は憎かった。
「この人は君の知り合いかい?」
影は俺に問い掛けて来た。
「コイツは俺の妻を奪った、殺人野郎だ!」
俺は怒り任せに怒鳴った。すると、
「分かった。じゃあ、一晩その男の様子を見てみてごらん。それが、命を奪う際の掟だから」
こう告げると、影は、この空間ごと消滅した。
俺は、見知らぬ家の上に浮いていた。そこには普通の家族の暮らしがあった。その中に、妻と子供に微笑み掛けながら、食事を摂る一人の男がいた。
幸せそうに微笑んでいるが、その顔は作り笑顔の様に俺の目には映った。
「雄二。あの子は寝たわ」
妻らしき女性が、告げながら男の横に腰をおろす。
ん? 雄二? こいつが、こいつが妻を……!!
俺は今すぐにでも絞め殺したい衝動に駆られる。
「ああ……俺はなんて事をしてしまったんだ」
男は、頭を抱え込み涙している。
「お相手の旦那さんも自殺してしまった様だし、俺は謝罪すら出来ていない」
男が消え入りそうな声で呟くと、横の妻が背中をさすっている。
「これからどうするの? 会社も解雇になりそうなんでしょ? 賠償問題もあるし。暮らしていくのも大変よ」
妻らしき女性は、今後の不安を男性に打ち明ける。
「すまない。本当にすまない。お前達にも本当に申し訳ないと思ってる。お金は、アルバイトでも何でもして頑張るから」
こう告げる男の声は、激しく震えていた。人を殺めてしまった現実に、精一杯向き合いながら、一生懸命家族を守ろうとしている様に見えた。少なくとも、俺の目にはそう映った。
「……確か、警察官が言ってたな。正に不幸としか言い様の無い事故だったって」
俺はこの現実を見て、恨む事に疲れてしまった。
ここは何処なのだろう。暗い。俺は浮いているのか……? いつから居るのだろう。全く思い出す事が出来ない。少し冷静になる為に、記憶を遡って辿る事にしよう。
――まず俺は、ここに辿り着く前、男に会った。そう、恐らく男だった。正確には、逆光で影の様なものしか見えなかった為、姿形はよく判らない。しかし、声は男だった。なので、男だったのだと思う。
その前は……。そう。暗い道の様な所だった。蛇行した道の前だった。そう。そこを進むと、男が佇む四畳半程の空間に辿り着いたんだ。
その前は……。屋上? そうだった。俺は絶望に打ちひしがれて。そう。この屋上から羽ばたいたんだった。
でも、何故俺はここから羽ばたいたんだったっけ? それが思い出せない。絶望って何の事だったのか……。だめだ。思い出せない。何か大切なものを失った様な気はするのだが、それが何か分からない。
俺の大切なもの。幸せな生活。日常。当り前の毎日……。
――そうだ……。妻だ――。
思い出した。俺は妻を失ったんだ。
あの朝の妻と俺のやり取りは、全く普段と変わらなかった。そういつも通りだった。
「じゃあ、行って来るね。ちゃんとお米研いで炊いといてね。後、十八時にお迎えヨロシク」
こう告げて妻はパートに出かけて行った。たまの休みにも関わらず、職場まで送れとせがまれ、それは何とか断ったが、面倒な用事を押し付けられた俺は、嫌々
「おう」
と応えると、妻を送り出し、いそいそと布団に戻った。もう一眠りしようと言う魂胆だったからだ。
何時間眠ったのだろう。俺は、ふと眼を覚ました。
「やっべ! 米研いでねぇ!」
おれは布団から飛び起きると、時間を確認しようと、枕元の携帯電話を開いた。
「ん? もう二十一時かぁ……。ん? ヤバっ!」
俺は、妻を迎えに行く時間を、とっくに過ぎていた事に気づくと、バタバタと身支度を始めた。しかし、ここで異変に気付く。いつもなら、ある筈のメールが無かったのだ。その代わり、十三件の着信履歴が残っていた。
胸騒ぎがした。
俺は妻の携帯に電話を掛ける……。出ない……。もう一度掛ける……。やはり出ない……。やけにコールが長く感じられる。再度掛ける。
「もしもし」
出た!
「ゴメン! 今何処にいるの? まだ仕事?」
この俺の問い掛けに、
「こちら、警察の者ですが、もしかして旦那様ですか? 何度も着信を残したのですが、出て頂けず……」
よく意味が分からなかった。何故妻の携帯に警察の人間が出るのか。俺は状況を飲み込めていないままだが、相手は構わず続ける。
「本日出勤途中、奥様が交通事故に遭われまして……。只今病院なのですが、至急来て頂けませんか?」
俺は、悪い冗談だと疑いたい気持ちと、絶望的な思いが入り乱れたまま、電話の主が伝えた住所を目指した。
病院に着き、案内された場所は病室では無かった。そう。安置されていたのだ。ほぼ即死だったそうだ。頭の中が混乱で占められていく。周りで状況を説明する警察官の声が、反響している様で、全く頭に入って来ない。まるで、部屋が揺れているかの様な感覚に囚われて行く。
「……は神崎雄二と言う男です」
しかし何故か、警察官の発するこの言葉だけは、はっきりと何の迷いも無く耳に入って来た。
「事故の加害者は、神崎雄二と言う男です。三十二歳の会社員です」
警察官が言うに、相手は事故後、救命措置をとり、明らかな過失も無い等の理由から逮捕はしていないとの事だった。
「妻を轢き殺した人間が、のうのうと暮らしているんですか!?」
俺は信じられず、思わず警察官に掴みかかる。しかし、どうにもならない事を知り、俺は絶望を味わった。そして、ふらふらと俺は霊安室を出ると、屋上に辿り付いていた。
「今から俺も行くよ」
そう告げると、俺は飛び降りた。痛みなど感じる暇も無かった。
気が付くと、蛇行した道の上に俺は立っていた。そこを進むと、狭い部屋に辿り着いた。そこはとても眩しく、その中に人影の様なモノが居た。そしてその影のようなモノは、
「おやおや。ココに人間が来るとは珍しい」
そう告げた。
「ここは何処ですか? あの世ですか?」
こう問う俺に、
「いやいや。違うよ。ここは死ぬ運命では無かった人間が行き着く所だよ。つまり、死んでも、行き先の無い者が辿り着く場所さ。故に、人はここを“時の最果て”と呼ぶがね。まあ、君は実に運が良い。ここは、滅多に来られる場所ではないからね」
こう答えると更に続けた。
「にしても、誰も君が死ぬなんて、予定外だった様だ。つまり、あの世に君の行き場は無い。だから、もう一度、現世に戻る必要がある。ここなら、好きな時に戻り、そこからやり直す事可能だ。何たって、“時の最果て”だからね。そして、そこから、又人生を楽しみなさい。それが嫌なら、生まれ変わり、新しい人生を歩む事も可能だ」
この状況、俺はこの上ない幸運に恵まれた。
「なら、今日の朝に戻してくれ! 妻を職場まで送れば、あの事故は防げるんだ!」
必死に告げる俺に、その影は言う。
「ははぁん。死ぬ筈の人間を助けるのか……。なら、話は別だ。それには代わりの命が必要だよ。変わりは用意できるのかい? それに、次死んだ時は地獄行きだよ?」
そう問う影に、俺は迷う事無く
「神崎雄二だ」
と答えた。こいつが憎い。顔も知らないが、妻を奪ったこの男が俺は憎かった。
「この人は君の知り合いかい?」
影は俺に問い掛けて来た。
「コイツは俺の妻を奪った、殺人野郎だ!」
俺は怒り任せに怒鳴った。すると、
「分かった。じゃあ、一晩その男の様子を見てみてごらん。それが、命を奪う際の掟だから」
こう告げると、影は、この空間ごと消滅した。
俺は、見知らぬ家の上に浮いていた。そこには普通の家族の暮らしがあった。その中に、妻と子供に微笑み掛けながら、食事を摂る一人の男がいた。
幸せそうに微笑んでいるが、その顔は作り笑顔の様に俺の目には映った。
「雄二。あの子は寝たわ」
妻らしき女性が、告げながら男の横に腰をおろす。
ん? 雄二? こいつが、こいつが妻を……!!
俺は今すぐにでも絞め殺したい衝動に駆られる。
「ああ……俺はなんて事をしてしまったんだ」
男は、頭を抱え込み涙している。
「お相手の旦那さんも自殺してしまった様だし、俺は謝罪すら出来ていない」
男が消え入りそうな声で呟くと、横の妻が背中をさすっている。
「これからどうするの? 会社も解雇になりそうなんでしょ? 賠償問題もあるし。暮らしていくのも大変よ」
妻らしき女性は、今後の不安を男性に打ち明ける。
「すまない。本当にすまない。お前達にも本当に申し訳ないと思ってる。お金は、アルバイトでも何でもして頑張るから」
こう告げる男の声は、激しく震えていた。人を殺めてしまった現実に、精一杯向き合いながら、一生懸命家族を守ろうとしている様に見えた。少なくとも、俺の目にはそう映った。
「……確か、警察官が言ってたな。正に不幸としか言い様の無い事故だったって」
俺はこの現実を見て、恨む事に疲れてしまった。
作品名:「憎悪と寛容の果て」 作家名:syo