湯気の時間
覚えていなかった。たぶん、適当な言葉が見つからずに、何となく曖昧に答えたのだと思う。妊娠してから、ただ我武者らに泣いてお金の事を考えて、働いて、そんな事考えた事がなかったんだ。だけど、私はその後、会う人会う人にこの質問をされる事になった。みんな興味深いのかもしれない。だけど、いつも曖昧にしか答えられなかった。小さな命を守んなきゃと思ったからと。いかにも大義名分と言うやつに聞こえるかもしれない。もしかしたら、それは私のそうあって欲しいと言う願望なのかもしれない。どちらにしても、陳腐過ぎて出来るなら言葉にすらしたくなかった。そんな事聞かないで。私は心の何処かでそう思っていた。
私は湖のほとりを場所を変えながら、しばらくぼんやりして夕方頃に渋々帰った。仕事帰りの人や学生で混み始めた帰りの電車の窓からは、オレンジ色の夕焼けが潰れた蜜柑みたいに大きく膨らんで滲んでいた。私はそれを無感情に見つめていた。まるでこの頼りな気な時間がひどくゆっくりになったような錯覚がした。お腹の娘が、相槌を打つように軽く蹴った。私と娘だけの恐ろしく孤立された時間。
「どうしたの?」
その声で、ボートの渕から、湖面のもったりした動きのない薄い青緑色の油のような、とろんとした水を宛てど無く見つめていた私は我に返った。
顔を正面に向けると、反射した光の網が上半身に白く揺らめく彼がオールを止めて眼鏡の奥から不思議そうに私を見ていた。
そうだ。ここは今。私は彼と永和湖に来て、手漕ぎボートに乗ったんだ。そして、何となく漕いで進んで行くうちに、そんな昔の事が、湖面に所々吹き出しているサイダーの泡みたいなものになって浮かんできたんだ。
湖面は怖いくらいに不透明で、その乱反射した薄い青磁色をした水の中には幾つもの枯れ葉や小枝がどれも直立不動で波紋さえ起こさずにひっそりと浮いていた。何となく奇妙な光景だった。ただボートの通って来た痕と、オールが描く模様が見渡す限りに続いている。まるで時間が静止しているかのような動きのない水の表面に、もったりしながら重々しく広がる波紋。
「あそこの注連縄の所に行ってみたい」
私がそう提案したので、彼は力強く漕いでその奥まった注連縄の張ってある渕にボートを滑らせていった。そこは巨大な岩がそそり立っていた。
太陽が完全に遮られたその渕は清々しい静寂な密度の濃い空気が辺りを包み、私達の肌を冷たく撫でた。つがいだろうか、鴨が二羽、私達が近付いて来たのを警戒しながら少しずつ徐々に離れていった。その様子が、なんだか、神社で言うなら宮司的な、寺で言うなら坊主的な動き方だ。二羽で相談でもするように、密やかに岩伝いにこちらの様子を伺いながら泳いでいった。ここを守ってる鴨?
注連縄は近くで見ると、かなり汚れている上に雑に作られた石工かなにかの作り物だった。音は全くしなかった。ボートにあたる水音さえもしない。ただその場所に満ちる冷ややかな空気の音がするだけだった。自己主張をする鳴くような鳥さえもいない。私達は黙って、その得体の知れない厳かな岩を見上げていた。空を覆う紅葉した樹木が幾重にも重なり細い枝を伸ばし合う。時間が止まっているような錯覚を受けたのだ。止まりはしていなくても、微妙な速さでゆっくりと流れているように感じた。それも、違った類いの時間が。その狭間にでもいるようだった。それをそれぞれが違った心持ちを抱いた2人が覗いている。
岩の横から土砂崩れのような上がれるくぼみが伸びていて、紅葉が燃えるように色づいて覗いていた。彼がおもむろに音もなく漕ぎ出し、私達は先例でも受けたような面持ちで、神妙に注連縄から遠ざかっていった。
ボートの両側に三日月を描くように、規則的に美しく雫を湖面に落としながらオールは水をかく。落ちた雫は丸い輪を幾つも描いて、どこまでもどこまでも薄い青磁色の湖面を広がって伝わっていく。振り向くと、私達が通った痕は消えるでもなく、ただ呆然と広がり続けている。遠く岸の湖面には一列になって、白だの黄色だのピンクだの様々な色をした建物が柔らかい質感で映っては滲みながら揺れている。そこだけがやけにくっきりと色鮮やかだ。
私は、オールを放して休んでいる、何処かなにかを眩しそうに目を細めて熱心に眺めている風ないつになく物静かな彼を見た。お腹を大きくさせて仕事をさぼって来てしまった頃には、また再び誰かとここに来るなんて想像もできなかった。と言うか、そんな事を考える余裕なんて微塵もなかった。ただ、その日その日だけで。
時間は確実に流れているんだと改めて思う。あの永遠に頼りない2人ぼっちだと思えた孤独な時間は湖面に描く模様のように広がって過ぎ去っていったんだと。そして、その上に又幾つもの雫が本当に静かに落ちては、新たな波紋を作って時間は重なっていく。そして人生も。
「インディアン・サマー」
ボート係のおじさんが呟いていた。まったくその通り、風もなく素晴しい晴天だった。彼の眼鏡が光り、その奥の目が見えなくなった。
12月とは思えない強い太陽熱で温められた湖水が蒸発して湯気になっていくみたいに、彼の周りが微かに揺らいで見えた。湯気になって空中に昇っていったのは、もしかしたら私の冷えきった過去だったのかもしれない。それとも、或いは気のせいだったのかもしれない。
彼が煙草を取り出して、ライターで小気味よく火を点けた。
「今日、俺達だけでボートに乗ったって言ったら、あいつきっと怒るだろうな」
娘は今日も小学校に行っている。彼は景色を眺めながら、のんびりするねと言いながら、ふと娘の事が気になったらしい。血は繋がっていないが、彼と娘は仲良しだった。何処か相通じる所があるらしかった。不思議な我が家。私達にしか理解出来ない、そんな気持ち。
出掛けに見かけた、竿になびく干したての洗濯物から、一斉に立ち上る活気ある湯気を思い出した。冷たい水分が蒸発していくと、カラッとした着心地のいい服が残る。いつかきっと、私の奥底を湿気って濡らしている過去が蒸発していく時が来るのだろう。その上に、3人で新たな雫を落としていきたい。出来るだけ長い時間をかけて。
私は桃の顔を思い浮かべて、彼を見た。彼は煙草の煙を纏いながら、オールの先を日光のあたった水が通り過ぎる様を眺めていた。それは分離した油の玉のように、大小不揃いにオール先を通過して流れていった。ボートは動いているのが気のせいかと思うくらいの鈍さで進んでいく。
彼は揺れる板底に不安定に寝転がって、目を閉じながら空を見た。私も目を閉じる。湖面は豊かな沈黙を守っていた。