崩壊世界ノ黙示録
呆然とする思考で、アシエは尋ね返した。
「いや?機関長から推薦があってね、君の階位は小隊長から色々吹っ飛ばして隊長になった。んで、僕は君の隊の副長」
「は、いや、え、あの、えっと……うん、取り合えず扉開けるね」
どれだけ口頭で説明されても、実感というものがとにかく湧かなかった。それに、リコス・ヴェイユという人間は何処までも根性悪だ。万一嘘を言っているということも有り得るだろうが、今そんなことをする理由もさして見当たらない。
アシエは、ノックも止んで静けさを取り戻したドアノブに手をかけ、ゆっくりと鍵を開けた。止まっていた部屋の空気が流れ出し、新鮮な空気が入ってくると同時に、見慣れた青年の顔が視界に映る。普段通りの黒い服、黒いズボン、黒いベルトに肩まで伸びた黒い髪。
だがイメージにそぐわず、彼は両手一杯を花束で満たしていた。空気に乗ってやって来る芳しい香り。色とりどりの花弁が色調に欠けていた視界を潤し、風に囁くように揺らめく。
「おめでとう、『元小隊長』」
少女が呆気に取られている間に、彼は祝盃の言葉を述べた。『小隊長』――その響きが、急に懐かしく思えた。何年も呼ばれていなかったもう1つの名前のようで、つい昨日までとはまるで違った響きを持つ。まるで魔法のようだった。
「……ありがとう」
それから、思いがけずアシエは彼に抱きついていた。
「え?ちょ、アシエ?いきなりどうしたのさ」
自分でも訳が分からない突拍子な行動。珍しく彼が戸惑っているのが肌を通して伝わり、余計に訳が分からなくなる。
――唯、嬉しかったのだろうか。名誉ある階級を受けた事に関してではなく、彼がこうして祝福してくれることが。部下としてではなく、1人の人間として自分を祝ってくれていることが。
訳も分からず、アシエは泣いた。それが湧き出る理由さえも分からないのに、頬を濡らす涙はいつ止まるともしれない位に溢れ出る。
「あー、アシエったら。そんなに泣いちゃって、私の前では泣いたことなんて無かったのに、彼には特別なの?」
「へ……パルト!」
声に顔を上げると、潤む視界の先に、少女が呆れた顔で立っていた。彼女もまた両手一杯に花束を携えており、それはリコスとは違った、いかにも少女らしい色調だ。
だが、そこで初めてアシエは今自分がどういう事をしてしまったのかを知る。
「えっと……前のキスは、これでチャラって事でいいかな」
――やってしまった。今まで殺すことしかしてこなかった感情を、他人の前では決して見せなかった形容を。自分の中で決して見せないと誓った弱さを、今自分はさらけ出している。
「はふぅっ」
理解した瞬間少女は、極限に恥ずかしい気持ちに苛まれて――何故そうなったのかは分からなかったが――彼の鳩尾にボディーブローを叩き込んでいた。情けない吐息を漏らして玄関に倒れこむリコスから花束だけを引っ手繰り、床を転がる体を一蹴して家の中に無理やり押し込む。
「馬鹿!あなたみたいなのがそんな真似するから、気持ち悪くて泣いちゃったじゃない!」
頬を伝っていた涙を服の裾で拭い取ると、怒りの表情を咄嗟に取り繕う。パルトはそんなアシエの行動を、だがやはり先ほどまでよりも深い呆れの視線で見ていた。
「ぱ、パルト?ととと取り合えず入って。多分……ううん、直ぐに珈琲でも淹れるからっ!」
「……はいはい。もう、大丈夫かしらね」
慌てる。躓く。結局こける。
そして家の中に可笑しな空気が瀰漫するのをはっきりと感じながら、アシエは感じた。
――とことん幸せだ、と。
★
――第1区画《ケテル》に吹き荒ぶ突風が、断崖絶壁の崖を削り取るように過ぎていく。強風に煽られた石は絶壁から剥がれ落ち、奈落の闇へと姿を消していった。
だが、その崖の中腹にそれは位置していた。凹凸の壁にぽっかりと開いた、巨大な洞穴。並べれば大砲の弾ですら酷く小さく見えてしまうであろうこの穴は、先刻から静かなざわめきの影を落としつつある。
「おいおい何だ、冗談でもねぇ。俺が情緒不安定にでもあってるってか?あぁ、死見えるところに我は無し、って前に誰かが言ってたっけな……まぁいいか、覚えてないし」
そんな巨大な空洞の中に独り立ち尽くす、刺々しい茶色髪を生やした男の手には、たった一振りのピッケルが握られていた。刃こぼれが酷く、目に見えて損傷は既に使用不可能な段階までに達している。それもそのはず、男はたった今、その一振りだけを頼りに断崖絶壁を下り、この洞穴まで辿り着いたのだから。
此処まで来た目的は1つ。1週間前に第8区のマルクトに強襲した、竜愚者の事である。
そもそもあの戦闘が巻き起こった原因は《黄金の夜明け団》が1人、メンダークス・ギレイの能力の愚者操作によるものだとされているが――メンダークス・ギレイという女性は、当の昔に夜明け団を追放された過去だった。数年前に狂気染みた事件を起こし、見かねた夜明け団が彼女を追放処分にして以来、暫しの間見ることは無かったのだが。今回に限って現れたということに、夜明け団の長――『花月愛理』が何らかの作為を感じ取り、おおよそ全体の調査を進めているのだ。
そして、今回その調査員に選ばれたのが夜明け団が誇る強力、『亜月玲』だった。
「あー、何で俺がこんなことしなきゃなんねぇんだ?そもそもこんな頭使う仕事、俺には向いてないっつたろうがよ。あいつ、帰ったら亜音速でぶっ飛ばしてやるか」
玲は、夜明け団の中でも特別物分りが悪かった。だがその反面肉体的には『最強』と言って過言ではない強さを誇っている。例えば普通の人間に対して絶大な威力を発揮する結晶器――それが、彼の前では完全なる無力と化す。結晶放射で作られた弾丸は、彼の肉体に着弾した瞬間に粉々に砕けるし、ナイフであろうと逆に刃が逝ってしまう。ましてや拳で殴打しようものならば、まるで鉄塊でも殴ったかのような感触を覚えるだろう。
あまつさえ、彼は大砲の弾であろうと片手で受け止める、或いは破壊する程の筋力も持ち合わせているのだ。割りに体格は細身で、筋骨隆々とした人間と並べれば貧弱にすら見えるだろう。
鉄壁よりも強固な筋肉の壁、そしてt(トン)の圧力以上を発揮できる筋力。その単純明快な盾と矛が、亜月玲という人間の全てだった。
「しっかし……こんな洞穴に棲んでたとは、あの竜も物好きだな。子供でも居るのか?」
自分が派遣されてきた事に対する文句を垂れながらも、玲は洞穴を進み始めた。
と、直ぐに目の前に何かがあることを察知し、目を細める。太陽光すら届かない漆黒の世界では、それが何かなど全く分からなかったが――。
その楕円形のシルエットだけは、やけに馴染み深いものだった。
「……ビンゴかよ」
卵の殻。歩み寄り、より鮮明に見えたそのシルエットの正体は、下手をすれば家屋1つ分程もあるであろう巨大な卵の『殻』だった。それが欠片と共に散乱しており、奥にはまだまだ空洞が続いているようでもある。
加えてその奥からは、妙に生々しい軋みが反響して洞穴中を打っていた。人が肉を咀嚼する時のような、湿り気を帯びた耳障りな音。