崩壊世界ノ黙示録
このセフィロトに無数と存在している固形物質、結晶放射は至極高い毒性を誇る。此処『機関』では、それを液体化して兵器利用する実験も成されているようだが、話によれば僅か数滴を実験用の愚者に投与しただけで、その個体は1時間足らずで死に至ったらしい。
擦過傷や刃傷、これ等は肉体の内面を晒し、空気中の結晶放射を確かに体内へと入り込ませる危険な傷だ。だが、新人類の体組織は、外からの進入にはめっぽう強く作られている。内部に侵入したそれについても少量なら問題なく駆除出来るが、絶対的な許容量が外からに比べて遥かに劣る。精々、食物を摂取した時、必然的に入ってくる結晶放射を完全に駆除出来る程度だろう。
だからこそ、この話は可笑しいのだ。そんな驚異的な毒性を誇る≪結晶放射≫の密集で作られた弾丸を内臓にまで受け、それを後遺症も無しで完治させるなど、普通あり得る話ではない。
「流石、その歳と性別のハンデをも乗り越え、名誉ある小隊長にまで上り詰めた君だ。肉体だけでなく、知識までそこまでとは。男性ならば隊長にでも就任させてやるのだが、何せ他のものに示しがつかんでな。そこは我慢して欲しい。……と、褒めるのはここまでにして、本題だ。リコス・ヴェイユは誰をも凌ぐ完治能力を持っているということは理解したね」
「ええ、そこは。……しかし、それだけで彼を夜明け団と断定するのは難しいのでは無いでしょうか。確かに彼は身体能力、判断力や行動力と言った意思的な力、それに治癒能力まで常軌を逸しています。ですが、以前私が立ち会った血液検査で、体内組織に異常は見られませんでした。私達新人類と同じく、改変された体組織を持っています。これでは、絶対的証拠がありません。それに……リコスは貴方が雇用したのでしょう、機関長。そこら辺の事情は知っているのではないですか?」
それが、アシエが怪訝に思っていた事だった。リコスは『機関長に雇われた』と言っていた。それに、彼の存在を黙認していた以上、エニスもまたそれを認めているのだろう。ならばその関係上、雇用する側が相手の事情も知らないと言うのこそ、最も可笑しい話ではないか。
食って掛かられたエニス本人は暫しの間考え込むようにして渋面を作り、思索の喘ぎを漏らしていたが、
「いや、悪いな。実は噂だけで雇った人材なんだ。何せ、巷では中々腕のいい仕事屋として知られていたからね、そういった優秀な人材を引き入れれば機関全体の強化にも繋がるという目論見だったんだ」
やがて開き直ったような笑みを浮かべ、恥ずかしげも無しにどう考えても思いつきの台詞を口にした。その言葉に込められた音の残響が、完全に消え去るまで、沈黙の時間が訪れる。
「ん、あぁ……機関長?御用が済んだのなら帰らせていただきます。それでは失礼致します」
「え?……あ、ちょっ」
まだエニスは何かを告げようと口唇を震わせていたが、アシエがそれを完全無視して踵を返す頃には、諦めたように息を吐いていた。
――機関長たる者が、こんなので大丈夫なのかしら。
最後にアシエは聞こえない程度の声量でそう呟き、重く冷たい銀灰色の鉄扉を押し開けた。
4
体の節々が痛む。目を開けようとしても、指先を動かそうとしても、まるでその行為自体を体が拒絶しているかのような激痛が奔る。
意識と体の乖離。昔から、大怪我を負って昏睡する時はいつもそうだった。刻まれた傷を癒しても、意識を取り戻せるまでに数ヶ月は時間を要する。
だが、結局どこかで目が覚める。そのまま永遠の眠りに就きたくても、運命と言うべきか――世界がそれを許してくれない。
「……?」
声が聞こえた気がして、青年――リコス・ヴェイユは反射的に寝返りを打つ。否、打つことが出来た。
続いて、指先を動かそうと試みる。やはり、両手の5本指は思い通りに動かすことが出来る。ならば足は?体は?やはり、全てが普段と同じように、思い通り動かすことが出来た。
『リコスさん!起きてください!』
誰かの叫びが、覚醒したての鼓膜を震わせる。聴覚の覚醒を確信したところで、リコスは遂に目を開けようと瞼に力を注ぐ。
「……眩しいな」
目を開けるなり、途端に激しい光がリコスの瞳孔を捉えた。しかしそれも一瞬の事ながらに、視界は直ぐに周囲の明るさに順応していく。人間にしては、脅威の速度で。
今、見上げているのは真っ白な壁だった。取り付けられた蛍光灯の白光がちらちらと明滅しているその壁は、今の体勢からして恐らく天井だろう。
次に印象的だったのは、特有の薬品臭さ。鼻を突くようなその臭いは、病院や他の藪医院などで嗅いだ事がある臭いだ。
そして眠る前、最後に見た光景は――あの少女の、情けの無い顔。あの時体を支配していた激痛は、今でも鮮明に思い出すことが出来た。
――が、問題はそこではない。薬品の香りに乗って空気を汚染しているのは、いつもと違い結晶放射だけでは無さそうだった。
「血……かな」
確かに、覚えのある血液の鉄っぽい臭いが空気に混同している。何事かは知らないが――恐らくは、荒事の類が今この病院で起きている。でなければ、病院と言う施設でこの騒々しさはあり得ない。
「!リコスさん、良かった、起きたんですね!」
リコスが上体を起こすなり、それを見た看護婦が1人、急ぎ足で駆け寄ってくる。声のトーンからして、先刻聞こえていたのと同一人物のようだ。
「何が起こってるのか、要所だけで説明してくれないかな。……無駄なお喋りは自殺行為だ」
取りあえず、状況把握から始めなければ何事もままならない。もしも襲撃だった場合の対抗手段は――と考え、履かされている翡翠のズボンや上着のポケットに手を突っ込み、そこに結晶器がない事を確認すると、リコスは小さく舌を打った。
「院内に愚者の大群が押し寄せてきました!警備兵も丁度休憩に、街へ出ていて……とにかく、逃げることから始め――」
「――もういい。それよりも結晶器、及び鋭利な金属製の刃物。院内にも切れ味のいいナイフくらいは置いてあるだろう、何処だ?」
問いながら、腕に吸着していた点滴の針を無理矢理引き千切る。どうやら痛覚も正常に起動しているようで、一瞬ちくりと痛みが腕を駆けた。
相手の答えを待っている間にも、周囲を念入りに見渡す。敵、及び何か使えそうなものを探していると、花瓶が添えられた机の上に、恐らくは花を切る為なのであろう大きな鋏が目に留まった。
「えっと……確か、ナースルームに幾つか護身用の結晶器が……って、何してるんですか!?」
「見ての通り、鋏を分解してる。即興ではあるけど、無いよりはマシだろう。……ナースルームだね、よし、案内を頼むよ」
まだ何かを言いかける看護婦を無視して、リコスは立ち上がり、体を少しだけ動かして調子を図った。どこにももう痛みは残っておらず、どうやら良好だと判断を下してから扉へと向かう。
後ろでは、まだ看護婦が口をあんぐりとさせて目をぱちくりさせていた。
「……死ぬのか死なないのか。死にたいんだったら、邪魔はしないよ」
「は、はい!行きます!」
「じゃあ絶対前にも後ろにも出ないで、横に居るんだ。分かったね」