ブランコ
さつきが自殺をするようになったのは、一年くらい前からだ。付き合いだした男は最低で、さつきをよく苦しめては楽しむような、悪趣味で、それが愛だと信じて疑わないような男だった。だからやめておけと口にしたのにと嶺は苦く思う。その結果、さつきは耐えきれずにじわじわと壊れていった。愛して傷ついて壊されて行く様子をただ見ていた。出来ることといえば愚痴も聞くぐらいで、彼女が泣くのも、酒におぼれるのも見ているしかなかった。その結果に嶺は一度だけさつきを抱いて、一生忘れられないいやな思い出を作った。
苦しみが愛なのだと言うならば、自分のこの気持ちはなんだろう。愛だというならば吐き捨ててやる。恋だというならば潰してやる。この気持ちはそんなものじゃない。
嶺は幸いにも、誰かが思いあい、支えあうことが愛だということを知る、そんな普通の家庭で生まれ、育った。それが出来ない者がいることなど知らなかったのだ。だからこそ、さつきに惹かれたのかもしれない。積み上げたものを壊していくしか出来ない。破滅しか待たない。だからやめておけと口にしたのに。
さつきが壊れ始めて、精神が不安定になるたびに嶺は恐れていた。服を引き裂いたり、酒を全身にかけたりする様子はただ事ではない。このままでは危ない、自分が。
嶺は自分がさつきに引きずられていくことを恐れたのだ。だから逃げるようにバーに行くことはやめた。学校に通う、勉学に励む。まるでまともな学生のふりをした。逃げたのだと思う。その結果にさつきがはじめて自殺をしたと携帯電話で知らされたとき、泣けもしなかった。自分のせいだとあのときは思った。いまは思わない。さつきが壊れて自殺しようとするのは彼女のせいなのだとはっきりと思うからだ。だが、それでも嶺はさつきが自殺未遂をするたびにたった一人で駆け付け、その手をそっと握りしめる。細く手を握りしめて、祈るように心の中で尋ねる。まだ生きてる。まだここにいる。
さつきの携帯電話にはいつも自分の電話が登録されている。
この繋がりを人はなんだというのだろう。
さつきが酒に酔って上機嫌なとき、嶺はいつも憂鬱になる。さつきの飲み代を支払い、さらには彼女が酔ったままにふらふらと歩いていくのについていく。このままほっておいたら、路上で眠りこけて変な男にレイプされるかもしれないという恐れがいつも嶺にさつきの後ろを歩かせた。その日は付き合う男に再びいたずらに気持ちよくさせてもらったさつきは上機嫌だった。このあと、きっと何かしら最低のことが、そう自分を気持ちよくさせる男によって与えられることをさつきは経験上知っているのに、それでも今だけは心地よさそうにしていた。危ない足取りで公園までたどりつくとさつきはブランコに駆け寄った。
「私ね、ブランコが大好きなの」
「へぇ」
ぎぃと鉄の軋む音がしたのに目を向けると、さつきがブランコにまたがり、揺れ動かしている。
「けど、人気だから、なかなか遊べなくていつも待ってた。夕方、そう、夜になってはじめて出来たの」
「それまで待ってたのか。短気なくせに?」
「ほしいものなら、いつまででも待つわ」
「へぇ」
嶺は煙草を吸った。春先の季節だが、まだ夜は寒かった。
「俺は苦手だった。ブランコってふわふわしていて、揺れるだろう。それにスピードも出せる。それが恐かった」
「弱虫ね。私は、それが好きだったわ」
さつきが馬鹿にしたように笑うのに嶺は肩を竦めた。
「私の家ね、パパとママがいないから、いつまでも遊べるの。ずっとよ。ずっと。……だから、夜のほうが素敵だって知ってた」
「……寂しかったか?」
馬鹿なことを尋ねたと後悔したが、一度口から出た言葉はどうしようもない。ふわふわと宙を漂い、最後にはさつきの耳の中にはいっていく。
「ううん。寂しさを紛らわせる方法を私は持っていたもの」
さつきが笑うと嶺は言葉をなくして、押し黙った。それ以上は聞いてはいけないと思ったからだ。
たださつきの気持ちのようにブランコはきぃきぃと音をたてて、前へ、後ろへと振り子のように揺れる。揺れ続ける。
「んっ」
さつきが目を開けたのは、嶺が駆け付けた一時間後だった。それまですやすやと眠っていた彼女は、まるで目覚めることを拒絶するかのように眉を潜ませて、小さなため息をついたのにち目をそっと開けて、自分の視界にはいる嶺をまじまじと見つめたあと、ああっと声を漏らした。ようやく自分がなにをしたのか、ここが現実だと自覚したらしい。
「煙草の灰を飲んだんだって? ひどい匂いだ」
「うん。よく覚えてないけども」
「このまま病院に入院するべきだって先生は言ってる」
「いや」
さつきの返事は短く、強い。死のうとしているのに、どうしていつも強いのだろう。
「さつき」
「なに」
「死ぬなよ」
「嶺、疲れてる?」
「お前のせいでな」
煙草を吸おうとして、病院だと思いだして諦めた。
「私のこと嫌いって口にしたら、もうやめてあげる」
「……さつき」
真っ直ぐに嶺はさつきを見る。さつきの目は黒く、淀んでいた。まるで酒を飲んだあとのように。その瞳に以前のような魅力を嶺はもう感じられないでいる。
「俺は、どうすればいい」
「どうって」
「それを口にしたくないし、その勇気がない」
十年も一緒にいたんだぜ。たった一言で変わるのか。そして終わるのか。俺はお前の腹心なのに?
嶺は心の中でさまざまな問いをかけるが、どれもさつきの心に響いたりしないことはわかっている。それだけ二人は歳をとったし、嶺は一番肝心なときに逃げたのだ。その逃げた罪をここで支払っているのだ。
たとえ、この代償を支払いきったとしても、嶺はこのままでは逃げられない。この愛は何もうまない。肥料も、耕すべき手入れの手も、嶺は持っていないのだ。
「俺はお前を見捨てる悪党になりたくないんだよ」
「けど、それだと救われない」
どちらもね。さつきの声は嶺の心に響いてくる。
さつきは出会ったころのまま変わっていない。その危うさも、愛しさも。それが嶺を困惑させ、絶望に叩きつけた。変わったのは自分なのだとありありと思い知らされた。
「嫌いだ」
一言だけ口にして嶺はさつきの手を両手で握りしめてうつむいた。泣きたいが、涙は出てこなかった。
「いいわよ」
さつきの声は慈愛に満ちていたのに嶺は声をあげて泣きだしそうになった。しかし、さつきはそんな余韻を嶺に与えはしなかった。素早くベッドの傍らに置いてあるテーブルにある携帯電話を手にすると、大きくふりあげて床に叩きつけた。ぱんっと携帯電話は音をたてて砕け散る。壊れてしまった携帯電話を嶺はじっと見つめていた。嶺もそれにならって自分の携帯電話を取り出すと、立ち上がり、床に投げ捨てた。砕け散った携帯電話をじっと見つめて嶺は深いため息をついてさつきを見た。さつきは微笑んでいたのに嶺は泣きながら笑った。
ブランコのように、ゆらゆらと視界が歪んで見える世界に嶺は背を向けて立ち去った。揺れ続けるブランコから、飛び降りたときのような、もっと乗っていたかったような、それでも帰らなくてはいけないという不安と恐怖と名残惜しさの混ざった感情からの解放に心を締めつけられた。