ブランコ
――さつきが自殺未遂をした。
家に帰るまでわざと見ないでいた携帯電話に何件かのメールと電話の履歴。それが語るものが何度目かの知らせであることに嶺は深いため息をついて、せっかく脱いだ上着を手にとると再び袖を通していた。
居間では妻の英子がせっせっと夕飯の支度をしている。たぶん、見ないままにして夕飯を食べ、風呂には入り、寝てしまうことも嶺には出来る。さつきが自殺をしたところで急いで駆けつけなくてはいけない義理も義務もないのだ。頭ではそれがわかっているのに体はまるでよく躾された犬のようにきびきびと感情とは逆に病院に向かおうとする。
部屋を出ると台所で作業していた英子が振り返った。
嶺の顔を見たとき英子の顔は渋いものになった。それほどに自分は鬼気迫る顔をしているのだろうか。
「どうかしたの? なにか、あった」
「知り合いが事故にあったんだ。ちょっと病院まで行ってくる。食事はできないかもしれないから、先に食べて寝てくれないか」
嶺の言葉に英子は顔をしかめたが何も言いはしなかった。
いつもつく嘘を彼女もわかっていても、わからないふりをして騙されてくれる。申し訳ないような、ありがたい気持ちで家から飛び出し、車に乗り込むとすぐさまに出発した。
車を運転するとどうしても口寂しい気持ちになる。無意識に懐の煙草を一本、取り出して口にくわえていた。
さつきは十年来になる嶺の女の友人だ。
知り合ったのは高校生のとき、背伸びした足を踏み込んだバーだった。音楽と雑踏の曖昧な世界は若さに溢れていた。酒と女と、それに危険なゲームを楽しむにはちょうどいい世界だった。
嶺はそこでカクテルをとてもおいしそうに飲むさつきと知り合った。
彼女は自分を人にどう見せるか、そういうことを考える女性だった。
女が女をしている。
目が離せなかった。
さつきは男たちの視線をいやがることもなければ、猫が毛を撫でられるように受け入れくすぐったげに笑うのだ。
「ねぇ、お酒を奢って」
初対面にもかかわらずさつきは嶺に空のグラスを差し出して言った。
どうしてさつきがあのとき自分を選んで声をかけたのか。嶺には未だにわからない。自分はあのときもそうだが今も平凡だ。人に誇れるものはなにもない。
さつきと話せたとき嶺は胸がどきどきとときめくのを押し隠そうと必死にクールに決めようとしてみた。さつきの飲んでいたカクテルを注文して自分も同じものを飲んだ。
カクテルはジュースのように甘かったが、その分、飲み過ぎてあとになって酔っぱらって気持ち悪くてトイレでさんざんに吐いた。そんな嶺をさつきは見て楽しそうに笑った。大人ぶりは無理だとそのとき悟った。
ブレーキも踏まずに、カーブを曲がる。
タイヤの軋む音がする。
目の前の信号は赤が点滅していた。かまわずにスピードをさらにあげた。エンジンがうなり声をあげる。風よりも早く走りたい。さつきに会いたい。会ってやりたい。今すぐに。
家を出るまで抱えていた冷めた気持ちが車に乗ってから急激に熱を帯びていくのがわかった。
こうなることはわかっていたんだ。さつきが自殺するのはいつものこと。そして自分がそれを追いかけるのも。
いつもそうだ。
さつきという女はいつも嶺を追いかける立場にさせた。
さつきはとても不安定だった。泣くこともあれば、突然と怒りだすこともあった。そのたびに嶺はさつきの世話に追われた。
はじめのうちこそ、さつきの世話は嶺にとっては楽しいものだった。いい女の世話をするのは男の役目だと思ったからだ。だが、さつきはただそれだけの女ではなかった。いつもトラブルを起こしては嶺を憂鬱にさせ、苛立たせた。だが、それでもいつもさつきの姿を探し、彼女がトラブルを起こせば電話一本でどこになりとも、どんな時間でも飛んでいったのは、嶺自身の弱さだった。惚れているというよりは、ただ下僕のようにこき使われている。
嶺はさつきの腹心。決して裏切らない、なにをしても味方でいる。
嶺がいるからさつき何も恐れずに遊び歩いたのだ。
どうにかしてくれ。嶺は心の中で何度もため息をついては、さつきのために働いた。それがますますさつきの行動を過激なものにするのだと知っていながら、嶺はさつきのために走り回ることをやめられなかった。
はじめは、その気持ちをなんといえばいいのか嶺自身は困り果てた。愛というには嶺は疲れ果てていたし、恋というものよりはもっと確実な形をしていた。
たぶん、さつきには自分が必要なのだ。そう思うことが嶺の体を突き動かしたのだ。
さつきは女王さまだった。
複数の男を渡り歩いていたが、嶺には体を開かない。――セックスをしたことを二人はない。いや、告白すると一度だけ酒に酔っ払って、そのままセックスに持ち込んだことがあるが、それは甘いものとは程遠かったことは確かだ。
さつきは様々な男を支配し、魅力でとろかせた。だが、さつきは誰のものにもならない。そして誰を束縛もしなかった。猫のようにしなやかに、甘えるときとそっけなくするときを使い分けていた。女だった。だが、時として、そのためにさつきは一人になることもあった。恋をすればいずれは破滅か束縛が待っている。さつきは迷いもせずに破滅を選ぶタイプだった。
その男と付き合うとさつきが嬉しそうに口にしたとき、嶺はやめておけと口にした。いい噂は聞かない男だった。それでも友人にしておくにはちょうどいい男だった。友人以上の関係になると破滅しか待ってないような男だったからこそ、嶺は危機感を感じた。さつきの目が恋をしていたから。
さつきは誰かと付き合うとき、しっかりと恋をする。彼女は確かに猫で、そっけなく、破滅の道を選ぶような女性だったが、それでも誰かと体を重ねるときはその相手を心から愛していた。彼女が破滅の道を選ぶのは、自由と愛を天秤にかけた結果、いつも自由のほうが重かったということだ。
そして、さつきは驚くほどの切り替えの速さで人の愛を捨てられる。それでも彼女が何も感じない人種でないことを嶺は知っていた。だから、やめておけと口にした。あのとき、もっとしっかりと止めておけばよかった。
病院につくと、嶺は受付ですぐにさつきの名前を口にし、緊急治療室に案内された。むせかえるような薬品と清潔さの世界。白いベッドにさつきが横たわっていた。手には点滴を打たれているのに嶺は椅子に腰かけて、そっと、その手に触れた。情けないような、泣きたい気持ちにとらわれた。もっと何かできればよかったと思う反面、自分に何ができただろうかと冷たい気持ちにもなる。はやく死ぬなら死ねばいい。死なないでくれとも思う。自分はどちらなのだろうかと嶺は考えて、たぶん、両方なのだと感じる。生きていれば生きているで困るし、死なれたら、それはそれで悲しい。
家に帰るまでわざと見ないでいた携帯電話に何件かのメールと電話の履歴。それが語るものが何度目かの知らせであることに嶺は深いため息をついて、せっかく脱いだ上着を手にとると再び袖を通していた。
居間では妻の英子がせっせっと夕飯の支度をしている。たぶん、見ないままにして夕飯を食べ、風呂には入り、寝てしまうことも嶺には出来る。さつきが自殺をしたところで急いで駆けつけなくてはいけない義理も義務もないのだ。頭ではそれがわかっているのに体はまるでよく躾された犬のようにきびきびと感情とは逆に病院に向かおうとする。
部屋を出ると台所で作業していた英子が振り返った。
嶺の顔を見たとき英子の顔は渋いものになった。それほどに自分は鬼気迫る顔をしているのだろうか。
「どうかしたの? なにか、あった」
「知り合いが事故にあったんだ。ちょっと病院まで行ってくる。食事はできないかもしれないから、先に食べて寝てくれないか」
嶺の言葉に英子は顔をしかめたが何も言いはしなかった。
いつもつく嘘を彼女もわかっていても、わからないふりをして騙されてくれる。申し訳ないような、ありがたい気持ちで家から飛び出し、車に乗り込むとすぐさまに出発した。
車を運転するとどうしても口寂しい気持ちになる。無意識に懐の煙草を一本、取り出して口にくわえていた。
さつきは十年来になる嶺の女の友人だ。
知り合ったのは高校生のとき、背伸びした足を踏み込んだバーだった。音楽と雑踏の曖昧な世界は若さに溢れていた。酒と女と、それに危険なゲームを楽しむにはちょうどいい世界だった。
嶺はそこでカクテルをとてもおいしそうに飲むさつきと知り合った。
彼女は自分を人にどう見せるか、そういうことを考える女性だった。
女が女をしている。
目が離せなかった。
さつきは男たちの視線をいやがることもなければ、猫が毛を撫でられるように受け入れくすぐったげに笑うのだ。
「ねぇ、お酒を奢って」
初対面にもかかわらずさつきは嶺に空のグラスを差し出して言った。
どうしてさつきがあのとき自分を選んで声をかけたのか。嶺には未だにわからない。自分はあのときもそうだが今も平凡だ。人に誇れるものはなにもない。
さつきと話せたとき嶺は胸がどきどきとときめくのを押し隠そうと必死にクールに決めようとしてみた。さつきの飲んでいたカクテルを注文して自分も同じものを飲んだ。
カクテルはジュースのように甘かったが、その分、飲み過ぎてあとになって酔っぱらって気持ち悪くてトイレでさんざんに吐いた。そんな嶺をさつきは見て楽しそうに笑った。大人ぶりは無理だとそのとき悟った。
ブレーキも踏まずに、カーブを曲がる。
タイヤの軋む音がする。
目の前の信号は赤が点滅していた。かまわずにスピードをさらにあげた。エンジンがうなり声をあげる。風よりも早く走りたい。さつきに会いたい。会ってやりたい。今すぐに。
家を出るまで抱えていた冷めた気持ちが車に乗ってから急激に熱を帯びていくのがわかった。
こうなることはわかっていたんだ。さつきが自殺するのはいつものこと。そして自分がそれを追いかけるのも。
いつもそうだ。
さつきという女はいつも嶺を追いかける立場にさせた。
さつきはとても不安定だった。泣くこともあれば、突然と怒りだすこともあった。そのたびに嶺はさつきの世話に追われた。
はじめのうちこそ、さつきの世話は嶺にとっては楽しいものだった。いい女の世話をするのは男の役目だと思ったからだ。だが、さつきはただそれだけの女ではなかった。いつもトラブルを起こしては嶺を憂鬱にさせ、苛立たせた。だが、それでもいつもさつきの姿を探し、彼女がトラブルを起こせば電話一本でどこになりとも、どんな時間でも飛んでいったのは、嶺自身の弱さだった。惚れているというよりは、ただ下僕のようにこき使われている。
嶺はさつきの腹心。決して裏切らない、なにをしても味方でいる。
嶺がいるからさつき何も恐れずに遊び歩いたのだ。
どうにかしてくれ。嶺は心の中で何度もため息をついては、さつきのために働いた。それがますますさつきの行動を過激なものにするのだと知っていながら、嶺はさつきのために走り回ることをやめられなかった。
はじめは、その気持ちをなんといえばいいのか嶺自身は困り果てた。愛というには嶺は疲れ果てていたし、恋というものよりはもっと確実な形をしていた。
たぶん、さつきには自分が必要なのだ。そう思うことが嶺の体を突き動かしたのだ。
さつきは女王さまだった。
複数の男を渡り歩いていたが、嶺には体を開かない。――セックスをしたことを二人はない。いや、告白すると一度だけ酒に酔っ払って、そのままセックスに持ち込んだことがあるが、それは甘いものとは程遠かったことは確かだ。
さつきは様々な男を支配し、魅力でとろかせた。だが、さつきは誰のものにもならない。そして誰を束縛もしなかった。猫のようにしなやかに、甘えるときとそっけなくするときを使い分けていた。女だった。だが、時として、そのためにさつきは一人になることもあった。恋をすればいずれは破滅か束縛が待っている。さつきは迷いもせずに破滅を選ぶタイプだった。
その男と付き合うとさつきが嬉しそうに口にしたとき、嶺はやめておけと口にした。いい噂は聞かない男だった。それでも友人にしておくにはちょうどいい男だった。友人以上の関係になると破滅しか待ってないような男だったからこそ、嶺は危機感を感じた。さつきの目が恋をしていたから。
さつきは誰かと付き合うとき、しっかりと恋をする。彼女は確かに猫で、そっけなく、破滅の道を選ぶような女性だったが、それでも誰かと体を重ねるときはその相手を心から愛していた。彼女が破滅の道を選ぶのは、自由と愛を天秤にかけた結果、いつも自由のほうが重かったということだ。
そして、さつきは驚くほどの切り替えの速さで人の愛を捨てられる。それでも彼女が何も感じない人種でないことを嶺は知っていた。だから、やめておけと口にした。あのとき、もっとしっかりと止めておけばよかった。
病院につくと、嶺は受付ですぐにさつきの名前を口にし、緊急治療室に案内された。むせかえるような薬品と清潔さの世界。白いベッドにさつきが横たわっていた。手には点滴を打たれているのに嶺は椅子に腰かけて、そっと、その手に触れた。情けないような、泣きたい気持ちにとらわれた。もっと何かできればよかったと思う反面、自分に何ができただろうかと冷たい気持ちにもなる。はやく死ぬなら死ねばいい。死なないでくれとも思う。自分はどちらなのだろうかと嶺は考えて、たぶん、両方なのだと感じる。生きていれば生きているで困るし、死なれたら、それはそれで悲しい。