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リストカット・シンドローム

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 切っているときは痛みを感じない。それよりも、心に受けた衝撃の方が大きいのが常のことだ。その衝撃をなんとかおさめるため、わたしはただ黙々と腕を切る。そして、血を見て、ようやく心の平穏を取り戻す。いっそ翌日、傷跡が服の生地に擦れたときや、浴槽につけたときのほうが、余程ひりひりと痛む。あの痛みは本当にどうにかならないものか。あとかさぶた。あればかりは少々醜くて、それを消したいがためにまた腕を切りつけたくなってしまう。
 つまり、わたしにとってリストカットとはすでに生活の一部として欠かせなくなっており、別段大げさなものではない。喫煙者が煙草をやめられないように、携帯中毒者が携帯電話を手放せないように、わたしは切ることををやめられないだけだ。それなのに、あの男は。
「『頼むからもうこんなことやめてくれよ! もっと自分を大切にしろって!』とか説教はじめてさ。だいたいわたしが切るきっかけを作ったのはあんただっつうの。その上自分を大切にしろとか、わけわからん思い込みで持論を展開されても、こっちは困るだけだっていうのよ」
 外部の人間による『自分をもっと大切にしろ』という言葉ほど鬱陶しいものはない。腫れ物に触るような態度も困るけれど、あんなふうに安易に説教を垂れるのも迷惑なのだ。決め付けによる同情ほど、わずらわしいものはない。
「おまえのレイプは許されて、わたしのリストカットが否定される謂われは無い!」
 どちらも、感情を発散させるという点においては同じことではないか。
 しかも人に迷惑がかかってない分だけ、わたしのほうが無害である。
「それが別れた理由?」
 ひとしきり話して憤然としたあと、詩織がおもむろに問うた。
「そう。だけど……そうじゃないかもしれない」
 本当は、もっと前から合わないってことはわかっていたから。
 でも、利用した。それはお互いさまだろう。
「恋愛なんて、片想いと妥協でできてるようなもんだしね」
 この場合、どっちが片想いでどっちが妥協だったのか、今考えてもよくわからないけれど。
「そうね。まるで猫ちゃんとわたしの関係のように。でもわたしはこれでいいの。充分幸せよ。報われない無償の愛を猫ちゃんに注ぎ続けるわたし。なんてかわいそうなの。でもそれがたまらない」
 詩織は窓辺で日光浴に腹ばいになる会ったばかりの野良猫に、愛しげな眼差しを向けた。
 無償の愛、か。
 そんなものを与えてもいいと思える人に、わたしもいつか出会えるのだろうか。
 それはまだ、わからない。けれど確実に言えることは、結局健太郎は最後までわたしの願いをわかろうとはしなかったということだ。そして、世の中の大半の男―――のみならず女も含め、この願いをわかってくれる人は滅多にいないということも。おそらくわたしが腕を切り続ける限り、そんな人と巡りあう可能性は広大な砂漠からダイヤモンドの欠片を探すように困難なことに違いない。
 それでもわたしは、腕を切る。