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リストカット・シンドローム

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わたしよりも野良猫を優先する友人に向かって、わたしはさっきから延々と彼氏の愚痴を呟いていた。いや、『彼氏』というのはこの場合すでに語弊があるのだろう。あやつとは、昨夜きっぱりとお別れしたのだから。
 その理由をせっかく話してやっているというのに、詩織は先刻から猫の咽を撫で、頭を撫で、嬉々としてポップコーンを与えている。そんなもの与えていいのかね。てんでこっちを向いてくれない詩織に若干腹を立てて呟けば、詩織はそんなときだけきっぱりと言うのだ。いわく、これはわたしの好物だから大丈夫。いったいどんな理屈だ。いくらあんたが無類のポップコーン好きとはいえ、この世にはポップコーンの苦手な人間だっているんだぜ。たとえばここに。ここに。それからこことかさ。
 ふん、だが、詩織にとって長年の付き合いのある友人よりも目の前の猫。彼女はそういうヤツであり、だからこそわたしも気負わずに何年も付き合っていられるのかもしれない。
 とりあえず、今はそういうことにしといてやろう。
 猫にひとしきりポップコーンを与えて満足したらしい彼女は、ようやくソファの横に腰掛けた。
「えーっと。それでなんだっけ」
「あんたわたしの話、全然聞いてなかったでしょう」
「当たり前じゃない。あんたの話より、猫ちゃんの方が数倍癒されるもん」
 きみは嘘も方便という言葉を知らないのか。親しき仲にも礼儀あり、などとしみったれたことは言わないが、せめて自宅に招いた友人をほっぽって猫にかかりきりだったことに、少しは罪悪感を感じてくれたまえ。
 しかし詩織のこんな態度はいつものことなので、わたしは一息溜め息をつくと、だからね、ともう一度最初から、事のくだりを語り始めた。
 それは昨夜のことだった。
 いつものように会社で飲み会を終えたわたしの元カレ―――健太郎は、酔ったいきおいでわたしのマンションのインターホンを鳴らし、水飲んだら帰ってねと丁重かつざっくりと受け入れ拒否の体勢を見せるわたしに、いきなり抱きついてきた。それで、キスをしてきたのだ。酔っ払った健太郎のキスはすえたアルコールの味にまみれていて、気持ち悪かった。わたしは健太郎を、突き飛ばした。それから急いで洗面所に駆け込み、入念に口腔をすすいだのだった。
 そんなわたしの様子に、健太郎はいっそう気分を害したらしかった。
 わたしの腕を強引に掴むとベッドに押し倒し、それで、乱暴に抱いた。
 健太郎に抱かれながら、わたしはいやに冷めた頭で、これが巷で話題のデートDVってやつか、などと妙に納得したりしていたのだ。DVやレイプは、見知らぬ者よりも機知の間柄で起きるのが八割以上なのだ。恋人間のレイプは、一見するとただの愛情表現とも受け取られかねないため、表に出にくい。けれどわたしは確信を持って断言しよう、健太郎が今、わたしにしていることは間違いなく犯罪である。わたしはわたし自身の尊厳を侵され、健太郎をなかで受け止めたときでさえ、無表情であった。
 それから、ヤツがわたしの部屋のバスルームを勝手に使うべく、ベッドから抜けたのを見計らって。
 腕を切った。
 十代の頃より肌の再生能力が確実に老化した最近は、なるべく自重していたのだが、どうにも止まらなかった。腕の内側、肌の柔らかい部分に刃をあてる。白い皮膚の下で静脈が脈打ってるのを確認して、わたしは一気に刃をすべらせた。こういうのは素早くすべらせたほうが、より深く傷を刻むことができるのだ。剃刀は危ないといわれているけれど、掌の上で豆腐を切るときの包丁がなんともないように、普通に利用していれば何も危ない凶器にはならない。わたしのように明らかに危ない使い方をしてこそ、その本領を発揮してくださるのだ。刃としての本領を発揮した剃刀で、わたしは何度も何度も皮膚を切りつけた。
 リストカットときいて一般的に思い浮かぶのは、おそらく手首のところを深く一筋だけ、切りつけたものだと思われる。家族向けのちょっとシリアスなドラマなんかでよく見るその演出。それで、大げさに包帯なんて巻いちゃってさ。わたしに言わせれば、あんなものは所詮フェイクでしかない。そんなんで本当に死にたいと思っているのなら、まったくどれだけ浮ついた世界で暮らしているのやら。そういうのを、ヒロイン症候群と呼ぶのだ。手首を切るのは自殺をするためだと思ってるやつは、一度完全自殺マニュアルを読めばいいのだ。自殺の方法について延々と記されているあの本によると、手首を切って自殺したいのなら、当然一筋の線を入れるだけではいけない。手首を切り落とす覚悟でなければならないのだ。そして手首から先を失った腕を、湯を張った浴槽につけておけば完璧である。安らかな死が、あなたを待っているだろう。
 もっとも、そんな苦労をしてまで自殺するなら、首吊りで一気に気を失ってそのままお陀仏になるか、真冬の山へ入ってわざと遭難し凍死する、あるいは崖から飛び降りるほうがよほどラクに死ねるだろう。わたしは、やらないけど。
 そう、わたしは、自殺するつもりなんて毛頭無い。まずそんな度胸が無いし、そこまで人生に諦観しているわけでもない。猫にポップコーンをあげちゃうような、おかしな友人もいるしね。
 では、なぜリストカットをするのか。
 生きるためである。
 実にシンプルな理由。言うなれば、苛々を爆発させた人間が物にあたるように、壁を蹴るように、人に当り散らすように、わたしは腕を刻むのである。至極単純明快、論理に適った行動である。おまけに器物損壊の心配もなければ、誰かに迷惑をかけることもない。
 しかしこの理由、言ってもなかなか信じてもらえないのが苦しいところである。陳腐なドラマやマスコミのせいで、リストカット=自殺のイメージがすっかりついてしまっているが、そもそも自殺したいなら手首を切るなんて面倒な手段には出ず、もっと確実な、それこそ首吊りとか青木ヶ原樹海とかそういう確実な方法をとっくに試している。それをせずに手首を切るということは、すなわち、わたしはまだまだ現実にしがみついて生きようとしている青臭い人間なのである。
 たとえばどうしようもなく感情が衝動的におさまらなかったとき。わたしは手首を黙々と切る。皮膚に刃をすべらせ、ぷっくりと赤黒い鮮血が滲み、膨らみ、溢れ、垂れるさまを見ているとホッと落ち着くのだ。血には、心を落ち着かせる作用があるに違いない。その優しい落ち着きをもっと欲して、わたしは新たに傷を入れる。そこにまた赤い線が走る。入れる。走る。刻む。垂れる。そんなふうだからわたしのリストカットは、よくある一筋の太い線ではない。手首から二の腕に至るまで、腕の表と裏にまたがって、無数の細い赤い線が縦横無尽に刻まれているのだ。まるで赤い糸を腕に巻きつけて失敗したようなその傷を見ていると、わたしの心は落ち着き、そしてうっとりする。かさぶたの段階まで進んでしまうと見苦しいが、切りたては赤い線が本当に美しくて、それを見たいがために気づけばいつも無数に刃をすべらせている。縦横無尽に傷をつける理由は単純で、傷が重なったほうがより多くの鮮血を見ることができるからである。