粒マスタードワルツ
明度が落ち始めた目の端に映るいつになく頼りな気に佇むリュックの中には、昨日工場の奥さんにコピーしてもらってきたLascia Ch’io pingaのCDとカレーの材料が寂しく入っている。今日、ご飯を食べながら3人で一緒に聞こうと思ったのに。
「あなたはとても素直な良い人よ。私は桃の事にしてもすごく感謝してる。だけど、私の気持ちが中途半端なままであなたに寂しい思いをさせているのが何となくわかって。でもそれじゃ、あなたの為にも私の為にもいけないとずっと思っていたの」
そんな事はない!俺は君と一緒にいられれば、それでいいんだ!と、言おうと思うのに、俺の口は情けない事に鯉のようにぱくぱくするだけで全然言葉が出て来なかった。俺は頭を垂れた。振られる。とうとう彼女に振られるんだ・・・
「それでもあなたの優しさに甘えて、私はちゃんとしないまま付き合ってきてしまった。申し訳ないと思ってる。ごめんね。本当に。でも正直、私は男の人を完全に信用するのが怖かったの。また裏切られたらって思うと、あなたには申し訳ないけど、合鍵を渡したり同棲したりに踏み切る勇気が出なかったの」
それは何となくそうだろうなと薄々気付いていたから仕方ない事だと思ってる。
「私は自分の気持ちをちゃんと整理してからじゃないと、一生懸命なあなたに失礼だと思ったから、しばらく時間を置きたかった。だけど、あの遊園地の日、少し疲れたあなたが明るいイチョウの葉の中を自転車に乗って颯爽と帰って行くのを見て思ったの。今は今しかないんだって」
「どういう事?」俺は思わず聞いてしまった。
「今は今しかない。あなたと過ごせる時間は一瞬一瞬が一度だけなんだって。だから考えて過ごすのはもったいない。私はあなたのが好きな事に変わりはないんだから、そのまま進んでみてもいいんじゃないかって。あなたの人となりは私なりに、この2年間でよくわかったつもりよ。だから・・・」
「だから?」
彼女はよく熟れた林檎のように真っ赤になっていて、今にも泣き出しそうだった。
「だから、あの・・プロポーズはまだ生きているのかしら? もし生きていたら、その・・・結婚を前提に一緒にワルツを踊っていきたいなって」
ワルツ? まったく。普通に言えばいいじゃないか。これだから彼女は大好きなんだ。
俺は彼女を思いっきり強く抱き締めた。弾みで彼女の目から涙が飛んだ。これは泣かせた事になるのかな? ま、いいや。
とりあえず、ガスコンロには彼女お手製の鍋が美味しそうに湯気を立てているんだし、あとはLascia Ch’io pinga(私を泣かせて下さい)をかけるだけ。そして彼女に、この曲が実はずっと工場内でかかっていたんだと言って、試しにワルツを踊ってみようかな。
カレーは明日。