粒マスタードワルツ
ママの知り合いらしく、珍しくママもチェロを持って参加した。ママのチェロを聞ける機会は滅多にない。まるで、深い森の中にいるような力強い風の音にも、草のざわめきにも木々の囁きにも似た、その厳かな音は聞く者の内側に染み渡るように優しく響いていく。圧巻だった。それに比べると、さっきまで主役を主張していたハーモニカは、ピクニックに来た森の中で大きな欠伸を連発している子どもの声みたいに聞こえた。落ち着いたギターの音すらも、可愛らしく聞こえてしまうのだ。本当に音楽は音を出す人柄や人生が正直に出るのだと思う。
俺はうっとりと目を瞑り聞き惚れていた。多分大多数の人がそうしていたと思うけど。すると、すぐ隣に衣擦れの気配を感じて、不審に思い目を開けると、目の前にいたのが白い袖無しのタートルセーターとブルージーンズのタイトな格好をした彼女だったのだ。彼女はまだ俺の前に置かれていたLascia Ch’io pingaを手に取り、眺めながら、誰に向かって言うでもなく呟くように鈴のような涼やかな声でそっと口にした。
「私、これ大好き」
俺は、彼女が動く度に色素の薄い髪が顔にかかる様、それを耳にかける彼女の手の動きをしばらく魂を抜かれたように見つめていた。彼女もだいぶ酔っているらしく、崩れるようにカウンターに座り込んで、死んだ魚のような目をしていたであろう俺を見た。
「この名前の意味、知ってる?」
急に聞かれたので、俺はアルコールとアドレナリンと音の麻薬が混ざった液体の中で心地よく浮かんでいる脳みそを働かせて考えようとしたが、当然うまくいかなかった。
聞こえてくるリズミカルなハーモニカの音に合わせて、戸惑って赤くなったり青くなったりカメレオンみたいに顔の色が変わっていただろう俺には一向構わず、彼女は長い睫毛を楽しそうに何度も瞬かせて、色のない艶めいた唇から、チェロの音に似た種類のまるでいい匂いの風を吹き出すように言った。
「私を泣かして下さい」
浮かんでいた脳みそが大きな音をたてて勢いよく沈んだ。或いはその音はその時に流れていた曲の決めの音だったのかもしれない。俺はその時から、彼女に夢中なんだ。
好転の連鎖。
「いつも、ありがとう」
楽しい食事の後、珈琲を飲みながらもしくは酒を飲みながら、彼女は必ずそう言った。申し訳ないと思っているのだろうか。
「寛ぎにきているだけだから」
「そっか。ごめんね」
彼女は何故か寂しそうに笑う。俺はその顔があまり好きじゃない。彼女にはいつも太陽のように笑っていて欲しいんだ。それに、彼女のこんな曖昧な意味合いのごめんねも好きじゃない。なんだかプロポーズをして断られた時みたいじゃないか。
彼女と付き合い始めて1年経った頃、俺は思い切ってプロポーズをした。工場にも慣れて、Lascia Ch’io pingaのラベルも完璧に貼れるようになった頃だった。彼女との付き合いもなんだか上手くいっていて、毎日が良い流れだった。
俺は白いビニール手袋に強力な接着力を誇るラベルがくっ付いてしまったので、急いで予備の手袋を出して、素早くつけ直した。その時、何故か見慣れている風景に見とれた。工場内にいつも静かに響いている旋律に合わせ、黒いベルトコンベアーに乗って、ゆっくりと夢のような速度で、後から後から流れてくる乳白色の瓶が、俺の眼球に映っては通り過ぎて行く。バイオリンの不協和音に似た音が鳴った気がして、それに連動して水底から泡が浮かび上がってくるようにふと思ったんだ。そうだ彼女にプロポーズをしようと。
無論、一時的に流れ作業が止まって怒鳴られた。けれど、急に俺には彼女しかいないと直感的に確信したからだ。それはわかるが時と場所を考えろと言われればそこまでだが、人間はいつ何処で、どんな事の何が浮上してくるかなんてわからないじゃないか。人間の2つに別れている脳みそは、いつでもどちらかが勝手な事を考えているんだと俺は思う。そして、いつだろうと思いついた事を水の泡や断片的なシグナルみたいにして思考に合図し、遠慮なく差し込んでくる。それが結構大切な事の場合もあるし、どうでもいい事の場合もある。けれど、見逃せない。少なくともその時の俺にとっては大切だと思う事だった。ところが、彼女にはあっさり断られた。
「今はまだ考えられないの。もう少し経ったら。ごめんね」
正直ショックは大きかった。彼女の気持ちはわからなくはないけど、せっかちな俺はどうして今じゃいけないのかと思った。先に出来る事は今でも出来るだろう?
けれど、そこで無理強いして彼女との関係を壊したくはなかったので我慢した。が、やはり何処かで、もしかしたら彼女は俺の事をそんなに好きではないのではと疑っていたのだ。だから今だ合鍵もくれないのか? そして、本当に色々な想像を膨らました。
しばらくすると、桃が俺の事をダーリンと呼ぶようになった。それを彼女も咎める風でもなく、むしろ一緒になって言っていたので、俺は安心した。良かった。
彼女は自己表現を得意とする人間の部類には到底入れそうもない程、そんなに感情の起伏が頻繁に現れる方ではなかった。しかも、独自の世界観や見解を持っていたので、よくわからない事で笑ったり、納得したりしている所謂不思議ちゃんだった。娘の桃は至って素直でわかりやすい子だったが、母親がこうだとむしろ逆の特性になる場合もあるのかもしれない。少なくとも母親と一緒の性質になってしまったら、桃自身にかかる負担が大きくなるのを桃は無意識に感知していたのかもしれない。
稀に、彼女が料理を作る事がある。その時に食べたくなったものを作るので、かなり手間がかかって丁寧に作られていて、華やかな飯だった。枝豆とか鮭とかジャコがたくさん混ぜ込んだ五目稲荷とか、レンコンと玉葱を乗せたスズキのオーブン焼きとか、とろけるチーズがこれでもかと大量にかかったグラタンとか、シーフードがたっぷり入ったジャワ風のあっさりしたカレーとか、クラムチャウダーとか、野菜がたっぷり入った煮込みうどんとか、ソーセージとキャベツのスープなんかだ。どれも美味しい。どうやら、彼女は煮込みものや混ぜ物やオーブン物が得意らしかった。
「ダーリンのご飯は、ちょっと味が濃いけど、勢いがあって美味しいね!」
桃はいつもニコニコしながら夢中になって食べてくれる。お世辞だけではなく素直に余計に言うところはちゃんと言うのが桃だった。その的中率ほぼ100%の核心を突いた発言に、時々大人げなくムッとする事もあるけれど・・・
「Lascia Ch’io pingaはどうして、この名前なのか知ってる?」
好物のレンコンの肉炒めを夢中で作る、スネアドラムのようなかん高い音が放出されるガスレンジの前で踊っているような彼女の後ろ姿を見つめながら、ふと既に食卓にスタンバイされたマスタードの瓶を徐に手に取り、俺は聞いた。
「え〜? 知らな〜い。どうして?」
彼女は相変らず慌ただしそうにステップを踏みながら、振り向かずに返した。
「これを作った社長の奥さんが、趣味で教えているダンス教室で好んでよくかける楽曲から銘々したんらしいんだけど、どうやらオペラか何かのワルツの曲名なんだって」