感情の切断
「…え…?」
トリスには母が何を言っているのか一瞬まるで分からなかった。
「どういうこと…?
わ、私とお兄ちゃんだけで暮らせって言いたいの…?」
「……ええ」
深く頷きトリスの目を見据える母に対し、トリスは恐怖なのかなんなのかよく分からないあの時に似た気持ちのせいで、どうしても視点が定まらない。
「ちょっとお母さん…!意味わかんないよ…!
ずっと一緒だって昨日言ったよね…!?」
な…なんで…なんでっ-!?」
「トリス!!」
段々と興奮を増す彼女の声を遮るように声を発したのはロレンスだった。
「母さんの話、聞いてあげよう」
ロレンスが宥めるように肩に手を添えると、トリスは渋々といった様子で母の次の言葉を待つ。
「あのね、二人とも。よく聞きなさい。
あなたたちが私と離れて暮らすには、ちゃんとしうた理由があるの。
いい?これはね、あなたたちの命を守るためなの」
「命を…守るため…?」
「ええ。ずっと言い出せなかったんだけど…
昨日のあなたの言葉を聞いて決心が付いたわ」
若干泣きそうな顔をしているトリスの横で、ロレンスは母の言葉を聞き入れると同時に表情を硬くする。
「トリス、あなたの誕生日、5日後でしょ?」
「ぇ…う、うん…」
「実はその日、この地域で戦争が起こるかもしれないの」
“戦争”…普段の生活でほとんど聞かない言葉のせいか、よからぬ想像だけが広がってしまう。
トリスは一旦自分の頭の中でいままでの話を整理しながら、気持ちを落ち着かせていく。
昨日のようにまた取り乱してしまっては、母に迷惑がかかるだけだ。
「…で、そのある“かも”しれないってどういう意味…?」
「エストニアの、征服反対派の一部の人間たちが反乱を起こすかもっていううわさなのよ。
でも、うわさにしては王室に声明文らしきものも届いてるみたいだし…
「っでも母さん、うちの王室の人たちはエストニアを完全に征服させたって…
ヴァルデマー様もそうおっしゃてたし…」
ロレンスが割って入ると、母は残念そうに首を横に振った。
「そんなのはどうせうわべだけよ。あっちの幹部たちを抑えただけのこと。
一番怖いのは、厳しい規則に縛られていない国民たちの方よ」
「そうか…」
「とにかく、その一部の人たちが反乱を起こしてこのオーフスを攻めてくるかもしれない。
そんな場所にあなたたちがいれば危険だわ。
だから、しばらくの間だけ、二人で安全な場所で暮らしていってほしいの」
「…母さんはどうするの?」
「私はここに残るわ。
戦いにいく男どもの世話もしなきゃいけないし」
やれやれといったふうに肩をすくめる母。
そんないつもと変わりない彼女を見ていると、気持ちが少し軽くなって二人はおもわず笑みがこぼれる。
「じゃあ母さん、その戦争が終わればまた一緒に暮らせるんだよね?」
「ええ、そうよトリス。ロレンスもチューロさんのところに帰れるの」
「じゃあ…じゃあ、少しの辛抱なんだよね…?」
今にもぐずりだしそうなトリス。
母は、目の前にいる実子たちの頭を優しく撫で、
「大丈夫よ。絶対また会えるから。
…ああもう、こんなこと言っちゃたらなんだかまるで私が死んじゃうみたいな流れになっちゃうわ。
でもね、そんなことは絶対無いからね。
あなた達はまた、絶対この家に帰ってくるの。私も、絶対ここでまたこうしてハーブティーを淹れて待ってるから。
ああそれからロレンス、あなたはお兄ちゃんなんだから、ちゃんとトリスを守ってあげるのよ。
もしトリスがなにか酷い目にあったなら、遠慮なく相手をぼこぼこにしてきなさい。
北欧魂見せてやるのよ。
それと最後にもうひとつだけ。
なにがあっても、どんな厳しい状況下に置かれても、私たち家族がいつもお互いに見守っていることは忘れないこと。いいわね?」
いつもの通りてきぱきと早口で用件だけを言い連ねる母。
そんな優しさの塊のような母の笑顔を見ていると、自然と表情が晴れてくる。
「まかせてよ母さん。僕昔から喧嘩だけは強いからね」
「わ、私もお兄ちゃんの足手まといにならないように頑張るよ!」
任せろと言わんばかりの自信たっぷりな二人。
母は、二人の頭をもう一度優しくなでると背を向けて、さて、と言って手を叩く。
パン、と短く乾いた音がした。
その余韻を残さないうちに、大きく声を張り上げる。
「さて!そうと決まれば行き先を伝えておかなきゃいけないわね」
「やっぱり、北欧?」
聞いたのはロレンスだった。
北海帝国最強のいまの時代なら、北欧にいるのが無難だろうと考えたのだ。
しかし母はいっかい小さく唸って
「それも考えたんだけど、バルト三国と地図上下の関係にある強諸国に囲まれるっていうのもちょっとしんどいかもしれないのよね」
「じゃあ、何処へ…?」
トリスが訝しげに問うと、母は振り返り、
「イングランドよ」
そう、どこか寂しげな声で言う。