私たちのワンダーランド
退屈なHRが終わり、私は教室を出た。とたんに夏特有の生暖かい空気が全身を包み込む。もう17時過ぎのくせに、窓の外は明るかった。濁音めいた虫の鳴き声がガラス越しに聞こえる。夏を主張するそれらの要素に私はうんざりして―――ふいに、アイスクリームが食べたいなと思った。
そういえば、帰る途中の道に、サーティワンがある。
寄り道の計画を頭の中で立てながら、私は後ろにいるであろう友人に声をかけた。
「うさちゃん、帰りアイス食べよ」
「うん、いいよー」
暑いもんねー、と言いながら彼女は私の隣に並ぶ。7月の始め頃、夏は汗でメガネがズレるのがやだ、と言っていたのを思い出した。
この友人を私は、うさちゃんと呼んでいる。苗字が宇佐美だから、うさちゃん。彼女は甘ったるいクッキー&クリームが好きだ。私が好きなのは、チョコレートミント。色は違うけど模様は一緒だねっ、となんだかズレたことをいつか彼女は言っていた。
**
私の名前は園原アリスという。夢見がちな母が「不思議なことに出会えますように!」と願って名付けたそうだ。そのせいで、私はとても迷惑を被っている―――母の願いが叶った、そのせいで。
当の母はすでに空の上の人で、恨みごとも言えないのだけど。
「あ、あ、アリスっ、あれっ」
うさちゃんが指さしたものを見て、私はため息をつく。
ほら、また迷い込んでしまった。アイスが遠のいていくのを感じる。
指の先にいたのは、カラフルな水玉柄の背広を着た小太りの男だった。ブツブツと何かを絶え間なくつぶやいている。ただ、それだけならば少々気味が悪いというだけでどうということもないのだが・・・・・その男は、宙を浮いていた。
男の背後には20階はありそうな高いビルがあり、彼はまるで、そのビルから飛び降りて、その途中で静止したかのような恰好で宙を浮いていた。
「なぁお嬢ちゃん?」
「はいぃ!?」
ふいに男が下―――こちらを向く。とぼけた目をした中年男だった。雰囲気にのまれて、かわいそうにうさちゃんはかけられた声に答えてしまう。
「人は壊れやすいもので、落ちれば殴られれば轢かれれば刺されれば溺れれば病気になれば寿命が来れば簡単に死ぬ」
答えが返ってきたことに気を良くしたのか、男は聞かれてもいない講釈を垂れ流し始めた。
「私はそれが怖いね。いつか私も簡単に偶然に必然に死んでしまう」
それは当り前のこと。抗うことも馬鹿馬鹿しい当然のことだ。
「生きていくのは怖い。いつ死ぬかわからないのは怖い。怖い、怖い、怖いんだ」
馬鹿馬鹿しい。でもそれは本当のことで、普段は忘れていなければ生きていけない恐怖。
「でもね、」
小さな瞳を子供のように輝かせ、男は高らかに宣言した。
「こうすれば、もうこれで私は簡単に偶然に必然に殺されることはないんだよ!」
男の、体が。
ゆるゆると、傾ぎ―――降下する。
「もう怖くない」
私は震える友人の手をつかみ、走り出した。
「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くな―――」
落ちてしまったものはもう戻せない。壊れてしまったものも、もう。落ちる前にもう壊れてしまった彼が救われるには、もう、本当に壊れてしまうしかなかったのだろう。
できるだけ聴覚を鈍らせようと、そんなことを考えながら私とうさちゃんはまっすぐに走って行った。
**
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
走った先には、見覚えのない花屋があった。店の前には、11、12歳くらいの大きな手鏡を持った男の子が立っている。にこにこと気さくな笑顔で彼は私たちに話しかけてきた。
「あれ、君、一人?」
うさちゃんは身をかがめ、緊張と安心が入り混じったような笑顔で彼に応える。知らない世界の住人には関わらない方が賢明なのだけれど、彼女のこんな律儀なところが私は嫌いではなかった。
「ううん、違うよ。弟もいるよ」
「弟?」
「うん、この中にいるんだ!」
そう言って、男の子は自分の手鏡をうさちゃんに見せる。
「僕とそっくりで、びっくりした? 本当に、僕たちそっくりなんだよ!」
手鏡には、もちろん彼そっくりの弟ではなく、うさちゃんと私の困惑した顔が映っていた。それでも彼は自分の『弟』を嬉しそうに自慢する。
私たちが何も言えないでいると、彼は自分の手鏡に自分の顔を映し、『会話』をし始めた。
「お姉ちゃん、すっごくびっくりしてるね!」
「うん、うん、そうだね」
鏡に向かって楽しそうに話しかける姿は、なんだか『見てはいけないもの』のようで、思わず私は目をそらす。うさちゃんも気まずそうに笑って、首をかしげていた。
「うさちゃん、行こう」
これ以上この狂った少年に付き合ってはいられない。私は早く冷たいアイスが食べたいのだ。後ろを振り返りながらのろのろと歩く友人の手をつかみ、私は早足でその場を後にした。
**
学校を出た時は明るかった空も、すっかり夕暮れの色を帯びて、柔らかい光が私たちを包み込む。
「戻ってこれた・・・かな?」
やっと道が見覚えのあるものになり、私はうさちゃんの手を離した。帰りたい、という意思が強ければ強いほど、不思議の世界から戻ってこれるのは早い。アイスのおかげで、今日は特に危険なこともなくすぐに帰ることができたみたいだ。
「はー、やっぱり今日も怖かったよ・・・」
カバンを抱きしめ、うさちゃんはため息をつく。怖がりのくせに、それでも毎日私と一緒に帰ってくれるんだから、彼女は本当にお人好しだ。・・・・そこが、大好きなのだけれど。
「よしよし」
「こらー!子ども扱いしないでよー!」
小さな子供にするように、友人の頭を撫でる。クセのあるふわふわの短い髪は、とても触り心地がよかった。
「もー、アリスの馬鹿ー・・・・あれ?」
道の先に人影を見つけ、うさちゃんは歩みを止める。緊張しているのが、後ろからでもわかった。しかしこっちに向かって歩いてくるのはどう見ても、私たちと同じくらいの一組の男女である。ごくごく普通の。だんだん近づいてくる彼らが楽しそうに談笑しているのを見て、「大丈夫」と私は彼女にささやいた。それでやっと、私たちは歩き出す。
「ねえ、もしもさ―――」
「だったら―――じゃないかな」
二人とすれ違った時、はしゃいでいるような口調の女の子は何故か、平坦な表情をしていた。逆に男の子の方は穏やかな笑みを浮かべていて、なんだか、ちぐはぐなカップルだな、という感想を持つ。たぶん片方は、もう死んでる人だからだろうか。
「アリス」
うさちゃんの手が私の手首を握った。溺れた者につかまれたような、容赦のない力に驚く。
声をかけようと隣を向いたが、かすかに震える蒼褪めたうなじを見て、何も言えなくなった。・・・・・一歩一歩が、長い。
「うさちゃん、どうかした?」
二人組はとうに行ってしまった。サーティワンはもう目の前。それなのに、うさちゃんはうつむいたままだ。具合でも悪いんだろうか。それならいいんだけれど。
「おなか痛い?」
ふるふると首をふられる。だったら何だと問おうとすると、か細い声が鼓膜を震わせた。
「一瞬だけ、見えたの。女の子の、お腹に、―――が」
そういえば、帰る途中の道に、サーティワンがある。
寄り道の計画を頭の中で立てながら、私は後ろにいるであろう友人に声をかけた。
「うさちゃん、帰りアイス食べよ」
「うん、いいよー」
暑いもんねー、と言いながら彼女は私の隣に並ぶ。7月の始め頃、夏は汗でメガネがズレるのがやだ、と言っていたのを思い出した。
この友人を私は、うさちゃんと呼んでいる。苗字が宇佐美だから、うさちゃん。彼女は甘ったるいクッキー&クリームが好きだ。私が好きなのは、チョコレートミント。色は違うけど模様は一緒だねっ、となんだかズレたことをいつか彼女は言っていた。
**
私の名前は園原アリスという。夢見がちな母が「不思議なことに出会えますように!」と願って名付けたそうだ。そのせいで、私はとても迷惑を被っている―――母の願いが叶った、そのせいで。
当の母はすでに空の上の人で、恨みごとも言えないのだけど。
「あ、あ、アリスっ、あれっ」
うさちゃんが指さしたものを見て、私はため息をつく。
ほら、また迷い込んでしまった。アイスが遠のいていくのを感じる。
指の先にいたのは、カラフルな水玉柄の背広を着た小太りの男だった。ブツブツと何かを絶え間なくつぶやいている。ただ、それだけならば少々気味が悪いというだけでどうということもないのだが・・・・・その男は、宙を浮いていた。
男の背後には20階はありそうな高いビルがあり、彼はまるで、そのビルから飛び降りて、その途中で静止したかのような恰好で宙を浮いていた。
「なぁお嬢ちゃん?」
「はいぃ!?」
ふいに男が下―――こちらを向く。とぼけた目をした中年男だった。雰囲気にのまれて、かわいそうにうさちゃんはかけられた声に答えてしまう。
「人は壊れやすいもので、落ちれば殴られれば轢かれれば刺されれば溺れれば病気になれば寿命が来れば簡単に死ぬ」
答えが返ってきたことに気を良くしたのか、男は聞かれてもいない講釈を垂れ流し始めた。
「私はそれが怖いね。いつか私も簡単に偶然に必然に死んでしまう」
それは当り前のこと。抗うことも馬鹿馬鹿しい当然のことだ。
「生きていくのは怖い。いつ死ぬかわからないのは怖い。怖い、怖い、怖いんだ」
馬鹿馬鹿しい。でもそれは本当のことで、普段は忘れていなければ生きていけない恐怖。
「でもね、」
小さな瞳を子供のように輝かせ、男は高らかに宣言した。
「こうすれば、もうこれで私は簡単に偶然に必然に殺されることはないんだよ!」
男の、体が。
ゆるゆると、傾ぎ―――降下する。
「もう怖くない」
私は震える友人の手をつかみ、走り出した。
「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くな―――」
落ちてしまったものはもう戻せない。壊れてしまったものも、もう。落ちる前にもう壊れてしまった彼が救われるには、もう、本当に壊れてしまうしかなかったのだろう。
できるだけ聴覚を鈍らせようと、そんなことを考えながら私とうさちゃんはまっすぐに走って行った。
**
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
走った先には、見覚えのない花屋があった。店の前には、11、12歳くらいの大きな手鏡を持った男の子が立っている。にこにこと気さくな笑顔で彼は私たちに話しかけてきた。
「あれ、君、一人?」
うさちゃんは身をかがめ、緊張と安心が入り混じったような笑顔で彼に応える。知らない世界の住人には関わらない方が賢明なのだけれど、彼女のこんな律儀なところが私は嫌いではなかった。
「ううん、違うよ。弟もいるよ」
「弟?」
「うん、この中にいるんだ!」
そう言って、男の子は自分の手鏡をうさちゃんに見せる。
「僕とそっくりで、びっくりした? 本当に、僕たちそっくりなんだよ!」
手鏡には、もちろん彼そっくりの弟ではなく、うさちゃんと私の困惑した顔が映っていた。それでも彼は自分の『弟』を嬉しそうに自慢する。
私たちが何も言えないでいると、彼は自分の手鏡に自分の顔を映し、『会話』をし始めた。
「お姉ちゃん、すっごくびっくりしてるね!」
「うん、うん、そうだね」
鏡に向かって楽しそうに話しかける姿は、なんだか『見てはいけないもの』のようで、思わず私は目をそらす。うさちゃんも気まずそうに笑って、首をかしげていた。
「うさちゃん、行こう」
これ以上この狂った少年に付き合ってはいられない。私は早く冷たいアイスが食べたいのだ。後ろを振り返りながらのろのろと歩く友人の手をつかみ、私は早足でその場を後にした。
**
学校を出た時は明るかった空も、すっかり夕暮れの色を帯びて、柔らかい光が私たちを包み込む。
「戻ってこれた・・・かな?」
やっと道が見覚えのあるものになり、私はうさちゃんの手を離した。帰りたい、という意思が強ければ強いほど、不思議の世界から戻ってこれるのは早い。アイスのおかげで、今日は特に危険なこともなくすぐに帰ることができたみたいだ。
「はー、やっぱり今日も怖かったよ・・・」
カバンを抱きしめ、うさちゃんはため息をつく。怖がりのくせに、それでも毎日私と一緒に帰ってくれるんだから、彼女は本当にお人好しだ。・・・・そこが、大好きなのだけれど。
「よしよし」
「こらー!子ども扱いしないでよー!」
小さな子供にするように、友人の頭を撫でる。クセのあるふわふわの短い髪は、とても触り心地がよかった。
「もー、アリスの馬鹿ー・・・・あれ?」
道の先に人影を見つけ、うさちゃんは歩みを止める。緊張しているのが、後ろからでもわかった。しかしこっちに向かって歩いてくるのはどう見ても、私たちと同じくらいの一組の男女である。ごくごく普通の。だんだん近づいてくる彼らが楽しそうに談笑しているのを見て、「大丈夫」と私は彼女にささやいた。それでやっと、私たちは歩き出す。
「ねえ、もしもさ―――」
「だったら―――じゃないかな」
二人とすれ違った時、はしゃいでいるような口調の女の子は何故か、平坦な表情をしていた。逆に男の子の方は穏やかな笑みを浮かべていて、なんだか、ちぐはぐなカップルだな、という感想を持つ。たぶん片方は、もう死んでる人だからだろうか。
「アリス」
うさちゃんの手が私の手首を握った。溺れた者につかまれたような、容赦のない力に驚く。
声をかけようと隣を向いたが、かすかに震える蒼褪めたうなじを見て、何も言えなくなった。・・・・・一歩一歩が、長い。
「うさちゃん、どうかした?」
二人組はとうに行ってしまった。サーティワンはもう目の前。それなのに、うさちゃんはうつむいたままだ。具合でも悪いんだろうか。それならいいんだけれど。
「おなか痛い?」
ふるふると首をふられる。だったら何だと問おうとすると、か細い声が鼓膜を震わせた。
「一瞬だけ、見えたの。女の子の、お腹に、―――が」
作品名:私たちのワンダーランド 作家名:白架