クローゼット・ティータイム
遠い昔、いつも一緒だったあの子。あの子の名前は、何だっただろう・・・・・・?
**
「ユメ、ユメ。起きて」
彼が名前を呼ぶのを聞いて、私は目を開けた。辺りには紅茶の暖かいにおいがが漂っている。また私はうとうとしていたようだ。
「・・・・今日は何、かな?」
「苺のタルト。前、好きだって言ってたろ」
苺のタルト!
彼の作るお菓子はどれも美味しいが、その中でも苺のタルトは大のお気に入りだ。前に食べさせてもらった時のことを思い出し、ついつい顔がほころぶ。
「はは、食べる前からずいぶん美味しそうな顔だな」
不意打ちのように額にキスをされ、くすぐったくて首をかしげると、彼はタルトの皿をコトン、と置いた。甘酸っぱくて香ばしいにおいが鼻をくすぐる。苺がつやつやと赤く輝いて綺麗だ。
「・・・・・・美味しい?」
「うん、魔法みたいに美味しい」
「メルヘンチックな褒め言葉だな」
からかうような言葉とは裏腹に、彼は頬を緩ませる。子供のようなその表情につられて、私も声を上げて笑った。
**
私は毎日、あの子と一緒に寝ていた。
つぶらな黒い瞳を見つめて、私は毎日あの子の名前を呼んだのに。
あの子の名前は何だっただろう・・・・・・?
**
「ユメ」
「ん・・・・・・?」
「また寝てた」
からかうような口調のくせに、その声音は優しいものだった。うっすら目を開けると、彼のつむじが見える。彼は私の腰に腕を回して、頭をお腹にもたれかけさせていた。甘えられていることがなんだか、くすぐったくて、嬉しい。
「なんだか、幸せね」
くすくすと笑いながら、気持ちを伝えた。言葉にすると恥ずかしくて、照れ隠しに問いかける。
「あなたも、幸せ?」
応える代わりに、ぎゅ、と腕に力がこめられた。いつも彼がするように頭を撫でてみたかったけれど、私は動けなくて代わりに頬を彼の頭にすりよせる。
そのまままた、ゆっくりと目を閉じた。
**
私はいつからあの子と一緒に眠らなくなったのだろう。
昔はいつもあんなに一緒だったのに。
あの子の名前は何だっただろう・・・・・・?
**
「私、忘れていることがあるよ」
「何を?」
「何だろう・・・・・・?」
首をかしげ、黙り込んだ私の口に彼は再びフォークを近づける。反射的に口を開くと、ガトーショコラのねっとりした甘さが口の中に広がった。咀嚼していくうちに、思考も甘く黒くとろけていく。それが嫌で首を振ると、彼は黒い瞳を悲しそうに伏せた。
「思い出して。思い出さないで」
悲痛な声に息が止まる。黒いガラス玉のような目でぎこちなく微笑み、彼はまたフォークを差し出した。そんな彼を見ていられなくて、私はまた彼の焼いたケーキを口にする。まるで、麻薬のようなソレを、わかっていながら咀嚼する。
ああ、そうだ。
彼の名前は、何だっただろう・・・・・・?
**
しゃきん、しゃきん。
怖い。
しゃきん、しゃきん。
怖い音がする。
しゃきん、しゃきん、しゃきん、しゃきん――――
ねえお願い、やめて!
「―――っ!」
悪夢から逃れるように目を開けた。叫びたくとも言葉が見つからず、酸欠の金魚のようなまねをする。手当たりしだい、めちゃくちゃに、暴れてしまいたい気分だった。
「ユメ・・・・・・」
彼は途方にくれた目をして、テーブルの向こう側に立っている。彼が運んできた紅茶もアップルパイも、なんだか嘘臭く見えた。行き場のない感情をどうにかしたくても、ずっと椅子に縛り付けられている手足は言うことを聞かない。ただ、嫌々と首を振るしか、私にはできなかった。
「ユ・・・」
何で今まで平気だったんだろう。
こんなのおかしい。
「マーチ!ここは、どこ?」
マーチ?なぜ、私は彼をマーチと呼んだのだろう。彼は、人の姿をしているのに。だって、マーチは―――うさぎのぬいぐるみの、はずなのだ。私と同じ、三月にやってきたうさぎのマーチ。つぶらな瞳の、可愛いぬいぐるみ。
「俺の名前、思い出したんだ」
しかし彼は否定ではなく、肯定を意味する言葉を吐く。沈んだ調子の声とは裏腹に、口元は笑んでいた。
「マーチ、お願い、私を解放して・・・・・・!」
縛りつけられた手足に視線を向け、そう哀願する。何も出来ないことがこんなに怖いなんて。今更のように恐怖がわきあがってくる。
「いいよ」
彼はいつものような笑顔で応えた。
そうだ、何も出来ないことが怖いと気づかなかったのは、彼が私の手足になってくれたからで、彼がいつも私の願いを叶えてくれたからで――――
「でも、」
彼はポケットから、■■■を取り出す。
「・・・・・・ユメはコレが、怖いだろ?」
**
『私とユメちゃんはいつも一緒、おそろいがいいの』
お母さんに切ってもらって、すっかり髪が短くなったユミちゃんは、鼻歌を歌いながら私の髪に手を伸ばす。しゃきん、しゃきん。ユミちゃんはあんまり器用じゃなかったから、私の頭は不恰好なザン切り頭にしかならなかった―――おそろいには、なれなかった。
そしていつしかユミちゃんの髪もまた伸びて、マーチとばかり遊ぶようになって―――いつまでも髪の伸びない私は、いつの間にか押入れの中にしまわれたのだ・・・・・・。
**
「ユミちゃん・・・・・・ユミちゃん、ユミちゃん、ユミちゃ・・・」
泣きたくても涙がでない。縛めがなくなっても手足は動かない。それは、私が見捨てられた人形だから。縛られていたのは、逃がさないためじゃなくて―――気づかせないためだった?
「マーチ。ここは、どこ・・・・・・?」
「ユメはもうわかってるだろ?」
フラッシュバックした過去の幻像から逃れようと目を閉じ、うつむく私の頬を、そっとマーチの手が包んだ。
「うそ!だって、マーチはユミちゃんに気に入られてた!」
「ユミちゃんはもう大人になって、もうぬいぐるみとは遊ばないんだ」
静かな声で告げられた言葉は、私たち玩具にとっては絶望以外の何物でもない。でも、マーチの声に悲しみはなかった。ゆっくりと顔をあげる。マーチは、微笑んでさえいた。
「マーチ、悲しくはないの?」
「だって、これは俺たちにとって、当たり前のことだろ」
「でも、」
わかっていても、私は悲しかった。辛かった。だって、ユミちゃんは私の世界そのもので、遊んでもらうことは存在の意味だったから。
「俺はいいんだ、また、ユメに会えたから」
マーチの腕が私を抱きしめる。それはかつてのユミちゃんみたいな遠慮のないものではなくて、何かを抑えているような、そんな抱擁だった。
君がいなくなって、悲しかったよ。
ぽつりとつぶやかれた声に、私は何も言えなくなる。抱きしめ返してあげたかった。でも、腕は動かなかった。
「ユメ、ユメ。三人でお茶会ごっこしたこと、覚えてる?」
「うん」
**
「ユメ、ユメ。起きて」
彼が名前を呼ぶのを聞いて、私は目を開けた。辺りには紅茶の暖かいにおいがが漂っている。また私はうとうとしていたようだ。
「・・・・今日は何、かな?」
「苺のタルト。前、好きだって言ってたろ」
苺のタルト!
彼の作るお菓子はどれも美味しいが、その中でも苺のタルトは大のお気に入りだ。前に食べさせてもらった時のことを思い出し、ついつい顔がほころぶ。
「はは、食べる前からずいぶん美味しそうな顔だな」
不意打ちのように額にキスをされ、くすぐったくて首をかしげると、彼はタルトの皿をコトン、と置いた。甘酸っぱくて香ばしいにおいが鼻をくすぐる。苺がつやつやと赤く輝いて綺麗だ。
「・・・・・・美味しい?」
「うん、魔法みたいに美味しい」
「メルヘンチックな褒め言葉だな」
からかうような言葉とは裏腹に、彼は頬を緩ませる。子供のようなその表情につられて、私も声を上げて笑った。
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私は毎日、あの子と一緒に寝ていた。
つぶらな黒い瞳を見つめて、私は毎日あの子の名前を呼んだのに。
あの子の名前は何だっただろう・・・・・・?
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「ユメ」
「ん・・・・・・?」
「また寝てた」
からかうような口調のくせに、その声音は優しいものだった。うっすら目を開けると、彼のつむじが見える。彼は私の腰に腕を回して、頭をお腹にもたれかけさせていた。甘えられていることがなんだか、くすぐったくて、嬉しい。
「なんだか、幸せね」
くすくすと笑いながら、気持ちを伝えた。言葉にすると恥ずかしくて、照れ隠しに問いかける。
「あなたも、幸せ?」
応える代わりに、ぎゅ、と腕に力がこめられた。いつも彼がするように頭を撫でてみたかったけれど、私は動けなくて代わりに頬を彼の頭にすりよせる。
そのまままた、ゆっくりと目を閉じた。
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私はいつからあの子と一緒に眠らなくなったのだろう。
昔はいつもあんなに一緒だったのに。
あの子の名前は何だっただろう・・・・・・?
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「私、忘れていることがあるよ」
「何を?」
「何だろう・・・・・・?」
首をかしげ、黙り込んだ私の口に彼は再びフォークを近づける。反射的に口を開くと、ガトーショコラのねっとりした甘さが口の中に広がった。咀嚼していくうちに、思考も甘く黒くとろけていく。それが嫌で首を振ると、彼は黒い瞳を悲しそうに伏せた。
「思い出して。思い出さないで」
悲痛な声に息が止まる。黒いガラス玉のような目でぎこちなく微笑み、彼はまたフォークを差し出した。そんな彼を見ていられなくて、私はまた彼の焼いたケーキを口にする。まるで、麻薬のようなソレを、わかっていながら咀嚼する。
ああ、そうだ。
彼の名前は、何だっただろう・・・・・・?
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しゃきん、しゃきん。
怖い。
しゃきん、しゃきん。
怖い音がする。
しゃきん、しゃきん、しゃきん、しゃきん――――
ねえお願い、やめて!
「―――っ!」
悪夢から逃れるように目を開けた。叫びたくとも言葉が見つからず、酸欠の金魚のようなまねをする。手当たりしだい、めちゃくちゃに、暴れてしまいたい気分だった。
「ユメ・・・・・・」
彼は途方にくれた目をして、テーブルの向こう側に立っている。彼が運んできた紅茶もアップルパイも、なんだか嘘臭く見えた。行き場のない感情をどうにかしたくても、ずっと椅子に縛り付けられている手足は言うことを聞かない。ただ、嫌々と首を振るしか、私にはできなかった。
「ユ・・・」
何で今まで平気だったんだろう。
こんなのおかしい。
「マーチ!ここは、どこ?」
マーチ?なぜ、私は彼をマーチと呼んだのだろう。彼は、人の姿をしているのに。だって、マーチは―――うさぎのぬいぐるみの、はずなのだ。私と同じ、三月にやってきたうさぎのマーチ。つぶらな瞳の、可愛いぬいぐるみ。
「俺の名前、思い出したんだ」
しかし彼は否定ではなく、肯定を意味する言葉を吐く。沈んだ調子の声とは裏腹に、口元は笑んでいた。
「マーチ、お願い、私を解放して・・・・・・!」
縛りつけられた手足に視線を向け、そう哀願する。何も出来ないことがこんなに怖いなんて。今更のように恐怖がわきあがってくる。
「いいよ」
彼はいつものような笑顔で応えた。
そうだ、何も出来ないことが怖いと気づかなかったのは、彼が私の手足になってくれたからで、彼がいつも私の願いを叶えてくれたからで――――
「でも、」
彼はポケットから、■■■を取り出す。
「・・・・・・ユメはコレが、怖いだろ?」
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『私とユメちゃんはいつも一緒、おそろいがいいの』
お母さんに切ってもらって、すっかり髪が短くなったユミちゃんは、鼻歌を歌いながら私の髪に手を伸ばす。しゃきん、しゃきん。ユミちゃんはあんまり器用じゃなかったから、私の頭は不恰好なザン切り頭にしかならなかった―――おそろいには、なれなかった。
そしていつしかユミちゃんの髪もまた伸びて、マーチとばかり遊ぶようになって―――いつまでも髪の伸びない私は、いつの間にか押入れの中にしまわれたのだ・・・・・・。
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「ユミちゃん・・・・・・ユミちゃん、ユミちゃん、ユミちゃ・・・」
泣きたくても涙がでない。縛めがなくなっても手足は動かない。それは、私が見捨てられた人形だから。縛られていたのは、逃がさないためじゃなくて―――気づかせないためだった?
「マーチ。ここは、どこ・・・・・・?」
「ユメはもうわかってるだろ?」
フラッシュバックした過去の幻像から逃れようと目を閉じ、うつむく私の頬を、そっとマーチの手が包んだ。
「うそ!だって、マーチはユミちゃんに気に入られてた!」
「ユミちゃんはもう大人になって、もうぬいぐるみとは遊ばないんだ」
静かな声で告げられた言葉は、私たち玩具にとっては絶望以外の何物でもない。でも、マーチの声に悲しみはなかった。ゆっくりと顔をあげる。マーチは、微笑んでさえいた。
「マーチ、悲しくはないの?」
「だって、これは俺たちにとって、当たり前のことだろ」
「でも、」
わかっていても、私は悲しかった。辛かった。だって、ユミちゃんは私の世界そのもので、遊んでもらうことは存在の意味だったから。
「俺はいいんだ、また、ユメに会えたから」
マーチの腕が私を抱きしめる。それはかつてのユミちゃんみたいな遠慮のないものではなくて、何かを抑えているような、そんな抱擁だった。
君がいなくなって、悲しかったよ。
ぽつりとつぶやかれた声に、私は何も言えなくなる。抱きしめ返してあげたかった。でも、腕は動かなかった。
「ユメ、ユメ。三人でお茶会ごっこしたこと、覚えてる?」
「うん」
作品名:クローゼット・ティータイム 作家名:白架