使用人一族の娘
言葉を発している以上「無言の圧力」とは呼べないが、しかしそう形容してしまいたくなるほどの威力をもって、坊ちゃんはこれでもかというほど明るい笑顔で私に同意を求めてきた。
つまりは、口裏をあわせろ、と。おそらくはそういうことだろう。
「……ええ、まさか私もシューヤ君が坊ちゃんだったとは思ってもみなかったのですが、普段学校ではとても仲良くさせて頂いております。それはもう、二人一緒に文化祭実行委員になるくらい」
後半は若干とげとげしい言い方になってしまったが、初子さまや俊也さまはそれに気付かなかったようで、「あらそうなの」「そうなんだ」と嬉しそうに頷いていた。唯一、春江さんだけは若干いぶかしむような顔をしていたが、その辺は後で言い訳をするしかないだろう。
(学校では不良みたいな格好して、家では優等生みたいな格好して……。しかもわざわざ私を友達だってことにして、何をそんなに隠したがってるんだか)
相変わらずにこにこと笑う坊ちゃんに視線を向ければ、背中にまわした掌で「ごめん」という形を作っている。とりあえず坊ちゃんなりの謝罪と感謝なのだろうと受け止めて、私は周囲の大人たちに気付かれないよう小さくため息を吐いた。
「じゃあ、繭さんには今日から早速お仕事を覚えてもらおうかしら。春江さん、あとはよろしくお願いしますね」
「はい、かしこまりました」
歯切れのいい春江さんの返事を合図に、初子さまと俊也さまが立ち上がった。元々お忙しいらしいお二人だから、この後も色々と用事があるのだろう。春江さんも、お二人を呼び止めるような真似はせず「ありがとうございました」とだけ言って深々と頭を下げた。
「周也坊ちゃんも、色々と覚束ない娘ですが、どうぞよろしくお願いしますね」
「え、あ、いや、はい」
相変わらず立ち尽くしたままの坊ちゃんにも頭を下げる春江さんに、坊ちゃんはわずかに驚いたのか焦ったような声で返事をした。小さく肩を竦ませていたから、きっと先ほどまでの驚きが完全に抜け気っていないのだろう。
「じゃあ、繭にはまず基本的なことから教えるから、いらっしゃい」
「あ、はい」
春江さんの言葉に、私はこの十六年間で鍛えられた反射ですばやく立ち上がった。傍らには周也坊ちゃんが立ち尽くしたままで、春江さんは一言「失礼します」とだけ言ってその場を離れた。
そこに残されたのは、当然、私と坊ちゃんの二人のみ。
「……あの、さっきは、……とう」
「え?」
坊ちゃんが発した声の小ささに、春江さんが坊ちゃんを「物憂げ」と称したことを思い出した。今となっては、学校で不良の格好をするような人物が物憂げだとはとても思えないが。
「だから、さっき話あわせてくれてありがとう、って」
「ああ、いや別に」
ようやく聞き取れた坊ちゃんの言葉に、大したことはないけど、と返そうとしたところで、はたと我に返った。
そういえば、今日から私はこの人付きの使用人なのだった、と。
「……とんでもございません、周也坊ちゃん」
少しばかり悪戯な目で見返すと、坊ちゃんは勘弁してくれとでも言いたげな表情を浮かべた。先ほど立て続けにくらった大量のびっくりのお返しだ。
「本当に、一条さんが一条家の一条さんだって知らなかったんだ。ごめん。だからさっきは本当に驚いたんだよ。指差したりして悪かった」
「いえ、それは本当にかまわないのですけど」
寧ろ私なんか今日まで坊ちゃんの名前もシューヤ君の名前も知らなかったくらいですし。謝らないといけないのは、多分どっちかっていうと私の方。
「あと、学校での俺のことは家で秘密にしといて。お願い」
「……なんでですか」
両手を合わせて頼み込もうとするその姿で、その「お願い」が坊ちゃんにとってとても重要なことなのだと分かる。しかしながら、その理由を知りたいと思ってしまうのは、頼み込まれた側としても当然の心理だと思うわけで。
「繭! なにしてるの!」
だが、ちょうどその理由を坊ちゃんが口にしようとしたその瞬間、いつまで経っても後ろを着いて来ない私に痺れをきらした春江さんが声を張り上げた。しかも、あの声は少しばかり怒っている時の声だ。このまま怒らすと後々面倒なことになる。
「あ、じゃあ、私、行きますので」
この話はぜひ後で、と続けようとして、しかしその言葉は坊ちゃんに遮られた。
「――嫌なんだよ。みっともない」
わずかに顔を顰めながら、その言葉が真剣なのだと分かるくらいの力を込めて。足早にその場を立ち去ろうとした私の鼓膜を掠めた坊ちゃんの言葉に、私は思わず足を止めた。しかし、走り出そうとしていた体を坊ちゃんの方へ向けた時には、既に坊ちゃんは私とは逆の方向へと歩き出してしまっていた。
この広い屋敷の中を、今日来たばかりの私が一人で歩き回るのは自殺行為だ。ゆえに、坊ちゃんが一人で何処かへ行ってしまわれれば、私はそれを追う術がない。何より、今は鬼より怖い春江さんに呼ばれていることだし。
(……嫌って、何が嫌なんだろう。みっともないって。だから何が。主語を入れて喋ってくださいよ、坊ちゃん)
学校が嫌なのか、家が嫌なのか。きちっと正した制服がみっともないのか、着崩された制服がみっともないのか。主語の一切なかった先ほどの言葉では、それさえ分からない。
(高見沢の坊ちゃんがまさか同じ学校とはなぁ。しかも同じクラスだし。しかも文化祭実行委員にされちゃうし)
慌しかった本日の成り行きを思い返しながら、思わず大きく息を吐く。周りにそれを聞きとがめるような誰かがいるわけでもなかったので、吐き出したため息はここ数日で一番大きなものになった。
(しかも、当の坊ちゃんは学校と家とで全然格好が違うし。なにあれ、不良と優等生って対極じゃん。何を目指してるんだか全然わかんないよ)
先を行く春江さんを駆け足で追う間も、脳内を巡るのは今日会ったばかりの坊ちゃんのこと。これから長い間仕える人物なのだから、出来ればその人のことをきちんと理解しておきたいと思うのは当然だ。だが、当のその人にあまりにも不可思議な点が多すぎて、もはや何処から理解を深めればいいのかさえさっぱりだった。
(ああもう。――私、ほんとにちゃんとやってけるのかなぁ?)
一条家のしきたり。それは、高見沢家の使用人になること。私も例にもれずそのしきたりに従って今この高見沢家にいるわけだが――今更になって、そのしきたりを完遂することが出来るかどうか、正直なところ、不安ばかりがつのっていた。
「ちょっと、繭! 早く来なさい!」
「ああ、もう、今行きますぅ!」
先ほどの呼び声よりも数段怒りを孕んだ声に、それに負けないくらいの勢いで返事をする。母である春江さんはもう随分と先を進んでしまっていて、着物を着ているとはいえ駆け足で走っている私とどんどん差を広げていた。
そんなものさえ使用人としての経験が産んでいる差なのだとしたら、本当、慣れって怖い。私もいつかあんな風になれるのだろうか。いや、まあ、ならないといけないんでしょうけども。
十六年間、高見沢家の使用人になるためだけに勉強をしてきたはずなのに、何故今更になってこんな不安に悩まなければいけないのだろう?