影踏み
僕の小さい頃の話をしよう。
子供は誰でも空想を描くものだと思う。見えない友達であったり、おとぎの国であったり。
でも僕は一風変わった空想を抱いていた。
他人の影を踏むと、その人の良い所の一部分が僕のものになる、という空想。
そんなことあるわけない、と一笑されるかもしれないが僕はそれを本当に信じていた。
体育のランニングの時は絶好の機会だ。
前を走る、頭の良い人、みんなに好かれる人、容姿が秀でてる人、みんなの影を踏んでいった。
そして実際にその良い所の一部分を貰ったような気分になった。
僕は頭も見た目も悪くて、そのためか人に好かれることがなく、そのコンプレックスが僕をこういう行為に引き込んだのだと思う。
そうしているうちに、一人の転校生がやってきた。
その子は頭も良くて性格も良くて顔も整っていて、すぐにみんなの人気者になった。
僕はその子の影を踏みたくてたまらなくなった。
これ程良い所を持っているんだ、少し踏むだけでいつもよりもっと僕のものになるかもしれない。
しかし僕には劣等感が常に纏わりついていたので、人気者の彼に近づくのは気が引けた。
ところが家が近いということがわかって、知らぬうちに僕らは友達になっていた。
彼は明るくて優しくて、一緒にいると楽しかった。
でも、反対にそんな彼が妬ましい。
僕は隙をついては彼の影を踏もうとしたけれど、何故かいつも察知されて避けられる。
そう言えば彼はいつも席変えの時に、ある事情から廊下側の後ろにして欲しいと先生に頼んでいた。
そのある事情とは先生しか知らない。
まるで影を踏まれるのを恐れているみたいだ。
ある時、僕は聞こえてしまった。
「ねえ。なんであんな奴と一緒にいるの?面白くないし、暗いし」
クラスメートが彼に僕のことを話しているのだ。放課後の教室、二人きりで。
僕は廊下でそれを聞いていた。
「そんなことないよ。実は優しいところがあるんだよ。
あと漫画が好きなんだって。僕も漫画好きだから、話が合って面白いよ」
僕はそれを聞いた瞬間、走り出した。
人に褒められたのは初めてだった。
だが嬉しいという感情よりも、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだった。
やはり僕と彼が一緒にいるのは、おかしい事なんだ。
知っている。誰よりも僕が知っていた。
彼は優しい。だからあの言葉も、僕への同情心から出たものに違いない。
僕は思い切り泣き叫びたかった。
そして僕は橋の上にいた。学校から少し離れた場所にある橋。
下を覗くと深い川が勢いよく流れている。
落ちると危ないから、と子供が近づくことを禁止されている場所だった。
でも一人になるにはちょうどいい。
涙ぐみながら川を見ていると、少しずつ落ち着いてきた。
すると、後ろから誰かがやってくる足音がした。
彼だ。
「君もいたんだ」
にこやかに僕に話し掛けてくる。
僕はそっぽを向いて、急いで袖で涙を拭いた。
「ここはいいよね。一人になりたい時にちょうどいい。僕もたまに来る」
そう言って僕の隣までやってきた。彼も下を覗き込む。
「やっぱり君とは……なんていうのかな、感性が合う気がするよ」
僕たちは黙り込んで川の濁流を眺めていた。
そしてふいに気付いた。
……今がチャンスじゃないだろうか。
彼は川に気を取られていた。僕の足を彼の影に乗せるのに数秒もいらない。
僕はゴクリと唾を飲み込み、彼に気付かれぬようそっと足を動かした。
そして彼の影に足を乗せた瞬間。
周りが奇妙にぐにゃりと歪み、
どこからか囁き声が聞こえた。
――本当にどこまでもひっついてくる奴。
――僕がお前といたくないってことがわからないの?
――僕のお気に入りの場所は僕だけで見たいのに。
――意地悪なくせに僕の友達面なんかして。
――お前なんか大嫌いだ!
キーン……と耳鳴りがした。
気がつくと、彼が僕をまっすぐな瞳で見ていた。
「……僕の……影を踏んだの?」
彼が影を踏まれることを恐れていた理由。
「じゃあ、僕の……心の声を、聞いた?」
彼の影を踏むと、彼の心がわかってしまう。
それを恐れていたんだ。
「あれはね、あの心の声は、僕の気持ちの……」
僕は彼の言葉を最後まで聞かずに、彼を突き飛ばした。
本当のことなど聞きたくなかった。
彼は川に吸い込まれるように落ち、そのまま呑まれてしまった。
誤って滑り落ちたという僕の言葉を疑うものはいなかった。
葬式には行けなかった。引っ張って連れて行こうとする親に、僕は泣き叫んで反抗した。
親友の死が認められないんだろう、とみんなは思ったらしい。
僕はただただ恐かった。毎晩夢でうなされた。
僕を嫌いだという彼。人殺しと叫ぶ彼。
やがて父の転勤で僕は引っ越した。
忘れられぬ過去を抱えたまま…。
そして今日。あの日から時効になった年の、彼の命日。
僕は彼の墓の前にいた。
許して欲しいわけじゃない。楽になりたいわけじゃない。
ただどうしても、ここに来たかったのだ。
時効になるまで来なかったのは、僕が臆病だったから。
彼が僕をどう思っていようと、彼は今でも僕の一番の友達だった。
花を供えて手を合わせていたら、向こうから誰かがやってきた。
うっすらと彼に似ている人物――彼のお母さんだ。
あの時と比べてどっと老けて見えるのは、決して年月が経ったからだけではないだろう。
おばさんは僕に気付いた。
「あら、あなたは……」
彼女も僕を覚えてくれていたようだ。僕は軽く会釈をする。
「お花持ってきてくれたのね。ありがとう」
彼女も持ってきた花を供え、墓に水をかけて線香を焚いた。
「あなたはこの子の一番の親友だったものね」
……一番の親友。
その言葉は重い響きを持って僕の胸に伝わった。
それはただ単に僕が彼にひっついていただけで、
当の本人は快く思っていなかったのに。
「あの子はね、あなたのこと、優しいっていつも言っていたのよ。
私たち親が共働きであの子のことをちゃんと見てやれなくて……。
あの子がいつもひどい寝癖をつけていたの、覚えているかしら?
そのことを毎回同級生にからかわれるって泣いていたわ……。
みんなの前では無理して笑って、明るく振舞っていたようだけど。
でもあなただけは笑わないって嬉しそうに言っていたの。
あなたの前では自分は自然体でいられるって」
――どういうことだ?
彼は僕を嫌っていたんじゃなかったのか?
彼は自分の母親の前でも、僕への同情からの言葉を口にしていたと……?
「そうそう、こんな話もあったわ。
あの子空想癖があってね、色々おかしなことを考えるのよ。
一番の傑作はあれね……自分の心の声が聞こえてしまうんだっていうやつ。
影を踏まれると、その踏んだ人に自分の心の声が勝手に話し掛けてしまうって。
そんなことあるわけないのにねぇ。
でも、異常な程に恐れていたのよ」
知っている。誰よりもよく知っている。
だからこそ僕は彼を――。
子供は誰でも空想を描くものだと思う。見えない友達であったり、おとぎの国であったり。
でも僕は一風変わった空想を抱いていた。
他人の影を踏むと、その人の良い所の一部分が僕のものになる、という空想。
そんなことあるわけない、と一笑されるかもしれないが僕はそれを本当に信じていた。
体育のランニングの時は絶好の機会だ。
前を走る、頭の良い人、みんなに好かれる人、容姿が秀でてる人、みんなの影を踏んでいった。
そして実際にその良い所の一部分を貰ったような気分になった。
僕は頭も見た目も悪くて、そのためか人に好かれることがなく、そのコンプレックスが僕をこういう行為に引き込んだのだと思う。
そうしているうちに、一人の転校生がやってきた。
その子は頭も良くて性格も良くて顔も整っていて、すぐにみんなの人気者になった。
僕はその子の影を踏みたくてたまらなくなった。
これ程良い所を持っているんだ、少し踏むだけでいつもよりもっと僕のものになるかもしれない。
しかし僕には劣等感が常に纏わりついていたので、人気者の彼に近づくのは気が引けた。
ところが家が近いということがわかって、知らぬうちに僕らは友達になっていた。
彼は明るくて優しくて、一緒にいると楽しかった。
でも、反対にそんな彼が妬ましい。
僕は隙をついては彼の影を踏もうとしたけれど、何故かいつも察知されて避けられる。
そう言えば彼はいつも席変えの時に、ある事情から廊下側の後ろにして欲しいと先生に頼んでいた。
そのある事情とは先生しか知らない。
まるで影を踏まれるのを恐れているみたいだ。
ある時、僕は聞こえてしまった。
「ねえ。なんであんな奴と一緒にいるの?面白くないし、暗いし」
クラスメートが彼に僕のことを話しているのだ。放課後の教室、二人きりで。
僕は廊下でそれを聞いていた。
「そんなことないよ。実は優しいところがあるんだよ。
あと漫画が好きなんだって。僕も漫画好きだから、話が合って面白いよ」
僕はそれを聞いた瞬間、走り出した。
人に褒められたのは初めてだった。
だが嬉しいという感情よりも、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだった。
やはり僕と彼が一緒にいるのは、おかしい事なんだ。
知っている。誰よりも僕が知っていた。
彼は優しい。だからあの言葉も、僕への同情心から出たものに違いない。
僕は思い切り泣き叫びたかった。
そして僕は橋の上にいた。学校から少し離れた場所にある橋。
下を覗くと深い川が勢いよく流れている。
落ちると危ないから、と子供が近づくことを禁止されている場所だった。
でも一人になるにはちょうどいい。
涙ぐみながら川を見ていると、少しずつ落ち着いてきた。
すると、後ろから誰かがやってくる足音がした。
彼だ。
「君もいたんだ」
にこやかに僕に話し掛けてくる。
僕はそっぽを向いて、急いで袖で涙を拭いた。
「ここはいいよね。一人になりたい時にちょうどいい。僕もたまに来る」
そう言って僕の隣までやってきた。彼も下を覗き込む。
「やっぱり君とは……なんていうのかな、感性が合う気がするよ」
僕たちは黙り込んで川の濁流を眺めていた。
そしてふいに気付いた。
……今がチャンスじゃないだろうか。
彼は川に気を取られていた。僕の足を彼の影に乗せるのに数秒もいらない。
僕はゴクリと唾を飲み込み、彼に気付かれぬようそっと足を動かした。
そして彼の影に足を乗せた瞬間。
周りが奇妙にぐにゃりと歪み、
どこからか囁き声が聞こえた。
――本当にどこまでもひっついてくる奴。
――僕がお前といたくないってことがわからないの?
――僕のお気に入りの場所は僕だけで見たいのに。
――意地悪なくせに僕の友達面なんかして。
――お前なんか大嫌いだ!
キーン……と耳鳴りがした。
気がつくと、彼が僕をまっすぐな瞳で見ていた。
「……僕の……影を踏んだの?」
彼が影を踏まれることを恐れていた理由。
「じゃあ、僕の……心の声を、聞いた?」
彼の影を踏むと、彼の心がわかってしまう。
それを恐れていたんだ。
「あれはね、あの心の声は、僕の気持ちの……」
僕は彼の言葉を最後まで聞かずに、彼を突き飛ばした。
本当のことなど聞きたくなかった。
彼は川に吸い込まれるように落ち、そのまま呑まれてしまった。
誤って滑り落ちたという僕の言葉を疑うものはいなかった。
葬式には行けなかった。引っ張って連れて行こうとする親に、僕は泣き叫んで反抗した。
親友の死が認められないんだろう、とみんなは思ったらしい。
僕はただただ恐かった。毎晩夢でうなされた。
僕を嫌いだという彼。人殺しと叫ぶ彼。
やがて父の転勤で僕は引っ越した。
忘れられぬ過去を抱えたまま…。
そして今日。あの日から時効になった年の、彼の命日。
僕は彼の墓の前にいた。
許して欲しいわけじゃない。楽になりたいわけじゃない。
ただどうしても、ここに来たかったのだ。
時効になるまで来なかったのは、僕が臆病だったから。
彼が僕をどう思っていようと、彼は今でも僕の一番の友達だった。
花を供えて手を合わせていたら、向こうから誰かがやってきた。
うっすらと彼に似ている人物――彼のお母さんだ。
あの時と比べてどっと老けて見えるのは、決して年月が経ったからだけではないだろう。
おばさんは僕に気付いた。
「あら、あなたは……」
彼女も僕を覚えてくれていたようだ。僕は軽く会釈をする。
「お花持ってきてくれたのね。ありがとう」
彼女も持ってきた花を供え、墓に水をかけて線香を焚いた。
「あなたはこの子の一番の親友だったものね」
……一番の親友。
その言葉は重い響きを持って僕の胸に伝わった。
それはただ単に僕が彼にひっついていただけで、
当の本人は快く思っていなかったのに。
「あの子はね、あなたのこと、優しいっていつも言っていたのよ。
私たち親が共働きであの子のことをちゃんと見てやれなくて……。
あの子がいつもひどい寝癖をつけていたの、覚えているかしら?
そのことを毎回同級生にからかわれるって泣いていたわ……。
みんなの前では無理して笑って、明るく振舞っていたようだけど。
でもあなただけは笑わないって嬉しそうに言っていたの。
あなたの前では自分は自然体でいられるって」
――どういうことだ?
彼は僕を嫌っていたんじゃなかったのか?
彼は自分の母親の前でも、僕への同情からの言葉を口にしていたと……?
「そうそう、こんな話もあったわ。
あの子空想癖があってね、色々おかしなことを考えるのよ。
一番の傑作はあれね……自分の心の声が聞こえてしまうんだっていうやつ。
影を踏まれると、その踏んだ人に自分の心の声が勝手に話し掛けてしまうって。
そんなことあるわけないのにねぇ。
でも、異常な程に恐れていたのよ」
知っている。誰よりもよく知っている。
だからこそ僕は彼を――。