莉奈シリーズ
黒電話
――君は、意気地無しだね。
黒電話は言った。
莉奈は膝を抱え、電話台に背を預ける。ぎし、と木の軋む音がした。ひどく古い電話台だ。こうして少し体重を加えるだけで音を立てるほど頼りないし、色合いだって、木目が判らないほどに黒ずんでいる。引き出しの面に張られた赤茶の革張りは破れ、革の先がくるりと丸まり、中の黄色いスポンジが露出していた。
莉奈は幼稚園の頃よく物を破ったり壊したりする癖があって、時折それで祖母に叱られた。この電話台の革張りだってそうだ。莉奈が五歳のとき、革の弾力に興味を持っては爪をカリカリと立てて遊び、そのうち破れて、今度は革を剥ぐ感覚を楽しんだ。そうすると祖母が凄い剣幕でこちらへやってきて、「物は大切にせんといけん」と莉奈を叱りつけた。
物を大切にする感覚はよく分からなかったが、そのとき初めて声が聞こえた気がした。電話台はあまりの痛みに啜り泣き、台の上に乗っていた黒電話は莉奈に対して怒りを訴えたのだ。
三重の叱責に、莉奈はたまらず大泣きした。泣き出す莉奈を、祖母はただじっと見守るだけだった。やがて泣き疲れ、うとうとし出したところで、祖母は優しく莉奈を抱き締めた。
「反省したかい?」
「うん」
「なら、もうよかた。反省しとるもんば叱りつけるなど、意味んなかことやけんね」
小学六年生になった今知ったことで、この電話台と黒電話は亡くなった祖父との思い出だったそうだ。戦後、四号電話機として製品化されたその黒電話で、祖母と祖父は親の目を盗んで通話に勤しんだそうだ。
莉奈は、こつんと後頭部を電話台に寄りかける。やけに頬が火照るので、冷えた両手を当てて暖めた。それを見て、黒電話がせせら笑う。
――やっぱり君は意気地無しだ。そうやって悩んでばっかり。
「うるさいなぁ」
――思い切って告白しちゃいなってば。
「まだ友達のままでいいもん。今が一番楽しいの」
――友達のままって、だってもうあと四ヶ月で終わりだろう。
「終わりじゃくて卒業するだけ」
――それはつまり、終わるということだよ。あの子、卒業したら北海道に引っ越すんだろ。
莉奈は頭を起こし、両膝で頬を挟んだ。手が裂けるように冷えるので、お尻の下に手を敷く。つんとした空気が耳を触る。今日も寒い夜だ。
恋というものがよく分からなかった。正確には今莉奈が抱えている心持ちが恋というのだろうけど、たとえこの気持ちを相手に伝えたからって、それからあの子とどう接すればいいのだろう。少女漫画をいくら読んでも、ロマンスもののドラマをいくら見ても、やはりそれはピンと来なかった。それなら、このまま友達のままだっていいじゃん、莉奈はそういう言い訳をいつも黒電話にするのだけど、黒電話はいつだって小馬鹿にしたように笑うのだ。
――君の婆ちゃんは、それはもうマセてたもんだ。中学生で深夜まで彼氏と電話なんて、当時じゃ考えらんないぜ。それに引きかえ、君ってやつは。
「あたしまだ小学生だし」
――四月には中学生だろ。
「そうだけど」
――あの子の電話番号なら知っている。通話なら俺がしっかり受け持ってやる。安心しろ。古くさい電話機だが、音の鮮明さなら現代機にも負けないつもりだぜ。
莉奈は三十秒地面を眺めて、二十秒ぽかんと上を眺めて、それから十秒かけて自分の頬を叩いて気合いを入れた。
「決めた、今から告白する」
――その意気だ。がつんとかましたれ。
莉奈が意を決して立ち上がり、黒電話を睨んだ。黒電話も息を呑み、緊張を共有してくれる。受話器を取り、ダイヤルを何度か回したところで彼女の指が止まる。
「やっぱ無理っ」
頬を紅潮させて尻込みする莉奈に、黒電話は呆れたようなため息を吐いた。
「ごめんね、黒電話くん」
――まぁ、いいよ。君に告白する勇気が出るまで気長に待ってやるさ。
二ヶ月後、黒電話は喋らなくなった。
春の匂いのする玄関先で、それは唐突に訪れた。電話台がしくしくと泣き出し、莉奈はそれ以上にもっと泣いた。ほどなく祖母がやってきて、そっと後ろから莉奈を抱く。
「お別れせんとね、莉奈」
「やだ、あたし、どうしたらいいの、壊れちゃやだ」
祖母の皺だらけの腕に巻かれながら、黒電話をぎゅっと握った。
「最後に電話してあげたらよか」
祖母の声が震えていたので、莉奈は泣くのを止めて祖母を見上げた。彼女は口元をきゅっと上げ、細い目から涙を一筋流していた。
受話器を上げ耳に当てると、キーンと張り詰めた音がノイズ混じりに耳を覆う。回転ダイヤルを回す指は、意外とすんなり動いてくれた。
雑音が消えた。それはとてつもなく小さな変化だったが、莉奈の頭の中では閃光が瞬くほどの衝撃だった。
「はい、荒川ですが」
あの子の声だった。
「あの、あたしだけど、莉奈」
呼吸が止まりそうになるのを抑え、喉を絞る。祖母の方を振り返ると、彼女は微笑みを返してくれた。
あとどれだけ話せるかも判らないけど、これで伝えてしまおう。黒電話が最後に頑張ってくれたなら、自分もその分しっかり伝えよう、莉奈はそう心を決める。
――これで、意気地無しも卒業するといいんだけどな。
莉奈は呼吸を整え、次の言葉を紡いだ。