莉奈シリーズ
手すり
――寒いね。
どこからか声が聞こえた。
顔を後ろに向けると、夕日がビル群とおしくらまんじゅうしていた。声の主は見当たらず、回した首だけが疼く。
古びたマンションの五階から望むその景色がどこか遠い世界のように感じる。十一月も中旬に差し掛かり、こうして夜風が頬の産毛を撫でてくる頃になると、莉奈の荒み切った感情はさらに色を失くしてしまうようだった。
――莉奈ちゃん、可哀想。
声は先ほどより深みを増し、色濃く耳に残ったので、今度は期待混じりに辺りを見回す。やはり誰も居なかった。そうだよね、と落胆し、彼女は視線を足元に落とす。
莉奈はベランダの手すりにビニール紐で後ろ手に縛られていた。手すりは酷く錆び付いており、ばりが手首の皮に食い込むため下手に動くことはできず、そこでぼうっと拘束されているしかなかった。
半年前に我が家に来た義母の由紀恵は、三ヶ月やそこらというところで早くも莉奈に噛みついてきた。もともと、嫁いでくる前に初めて父に紹介されたときなど、あからさまに作為的と取れるような好意を向けてくるので、莉奈は初めっから彼女のことなど信用していなかった。裏に潜んだ莉奈をうっとうしく思う感情が、表情の節々からにじみ出てくるようだ。
絶対に母とは呼ばなかった。由紀恵さん、と余所余所しく呼んだ。
風の吹きすさぶ中、閉め切られたカーテンを無意味に見つめる。
父は毎日仕事で遅いため、小学校から帰れば嫌でも由紀恵と同じ空間に二人きりになってしまう。この奥で由紀恵と時間を共有するくらいなら、こうしてベランダに縛られていたほうがずっとマシに思えた。
――またあのオバサンなの、莉奈ちゃん。
声はどうも莉奈の手元から聞こえてくるようだった。手すりだ。茶色くあせた手すりはずっと莉奈に話しかけていたようで、ずっと無視していたことに彼女は少し罪悪感を覚えた。
「手すりくん、由紀恵さんのこと知ってるの?」
――知ってるよ、あのオバサンが来てからさんざんだもの。
「どうして?」
――観葉植物がそこにあったんだ。ぼくの友達だった。
「なんの話?」
――莉奈ちゃんの足元にある、それ。
ベランダの端には雑然とプランターが放置してあった。もう亡くなってしまった、莉奈の本当の母が趣味で育てていたものだ。昔は家族同然だったのに、由紀恵が来てからというものただの雑草に成り下がり、水気のない枯れた葉っぱが頼りなく風に揺られていた。
――そこのアイビーはぼくの親友だよ。今はもうすっかり弱り切っちゃって、二週間くらい前から話しかけてるんだけど反応がないんだ。
アイビーの茎はおじぎをするように頭を垂れ、プランターの縁に葉をぺたりと乗せている。
「死んじゃったの?」
――息はしてるよ。でも、隣のオーガスタはこの前死んじゃった。寒さに弱いんだ。
プラスチック鉢から生えたオーガスタはもう原型を残さないほど萎れている。昔は莉奈の身長ほどの高さがあり、茎も太く豪奢であった。邪魔だと言うことで由紀恵にベランダから追い出されてからというもの、すっかり気温にやられてしまったのだ。
――莉奈ちゃんも、このところ毎日ベランダで縛られてるね。
「うん」
――莉奈ちゃん、可哀想。
「でも、由紀恵さんと一緒にいるよりはここがいいよ」
――どうして莉奈ちゃんが部屋から追い出されなければいけないの。
手すりは泣き出しそうな声で言った。莉奈は目を泳がせ、枯れた観葉植物たちをなんとなく眺める。
――追い出されるべきなのは、あのオバサンなんだ。
そうでしょう? と手すりが同意を求めてくるので、莉奈は曖昧に頷いた。
――ぼくに任せて、莉奈ちゃん。
「どうするの、手すりくん」
風が吹きつけ、手すりの錆が微量に舞う。手すりは、ゆっくりと莉奈に語りかけた。
「由紀恵さん、マンションの下からお父さんが手振ってるよ」
翌日の夕方、莉奈は早まる鼓動を抑え、由紀恵をベランダへと誘導した。由紀恵は一度彼女を睨めつけ、仰々しくソファから腰を上げてベランダの窓を開けた。ベランダに出て片手に手すりを掴み、軽く下を見下ろしていた。
「お父さんなんて、どこにいるのよ」
「もっと下だよ」
莉奈はあくまで平常心を心がけた。由紀恵は訝しみながら、今度は両手を手すりに掛け、深く下を覗き込む。
――もっとだ。
「もっと下だよ、由紀恵さん」
手すりが短く言い、莉奈もそれに倣った。
突然、「ぎゃっ」と由紀恵が悲鳴を上げた。錆びきった手すりは由紀恵の体重を支えきれず、呆気なく折れてしまったのだ。由紀恵の姿が消える。下から彼女の甲高い悲鳴が聞こえ、それもすぐに消失した。
折れた手すりの間からマンションの下を煽ぎ見る。由紀恵は四肢を奇妙な方向に投げ出し、アスファルトへ静かに横たわっていた。不思議と何の感情も沸いてこない。興味の失せた人形が壊れたらこんな気持ちなのだろうか、と莉奈は想像する。
声が消えていた。仕方がないので、莉奈は昨日の手すりの言葉を反芻する。
――これは運命であって、そしてぼくたちの意志なんだ。
それから何度話しかけても、壊れた手すりはもう何も言わなかった。