終日の夏
「久しぶり、兄さん」
そう言って、夏の日差しを浴びながら青葉が教える書道教室に入ってきたのは弟の唯葉だった。
いつもは上げている前髪を垂らしていると、怜悧な雰囲気が少し弱まる。はにかむような笑みがこんなにも可愛い奴だったのかと、まるで初めて会う人物と相対するような思いで一瞬、立ち尽くした。
「あ、あぁ、久しぶりだね、唯葉くん」
「墨の匂い。懐かしいなぁ」
久しぶりといっても。青葉と唯葉は数日前に会っている。青葉の双子の妹、紅葉の葬式の場で。
そしてその数日前には、紅葉を誰が殺すかについて決めるために。
首から吊るされた左腕と首には真っ白な包帯、右の顔面にはガーゼと眼帯を当てられた唯葉は、痛々しかった。
その痛々しい姿を見て、青葉は自分がこの弟を長年憎らしく思っていた自分を思い出した。
子供のころから何をしても敵わず、最高の主人を持ち、さっさと己の歩む道を決めてしまった唯葉に何度嫉妬しただろう。
「・・・奥に行こうか」
まじまじと見つめてくる好奇心に満ちた子供たちの視線に耐えかねたように、唯葉が苦笑いとともに言った。
青葉は自分が長い時間呆けていたことに気付き、慌てて唯葉を奥の間に入れた。
血みどろで倒れ込む唯葉を見て、青葉は自分がとんでもない責任を弟に背負わせたことに気付いた。
弱いから。力がないから。
そう言い訳をして、結局は逃げただけだった。
思うと紅葉は、青葉とは正反対だった。むしろ、唯葉と双子だと言った方がしっくりとくる。彼らは似ていた。強く、妥協せず、誰よりも主人に忠実に生きている。
青葉には、彼らのように全身全霊を賭けられるものが存在しなかった。それこそ、双子である紅葉ですら。
結局一族間の話し合いで紅葉を討つのは唯葉に決まり、青葉はそれを端で聞いてほっとしたものだ。
青葉も鹿森の人間だった。妹の犯した罪の重さは重々承知している。
その家の罪人はその家が始末する決まり。
鹿森に属するもので、最強とすら言われた紅葉を殺すことが出来るのは唯葉しかいなかった。それにほっとし、同時にざまを見ろとは思わなかったか。力のある者同士、潰し合えと思わなかったと言えるのか。
それが決定した時、唯葉は青葉を見やった。
あまりにも静かな瞳に恐怖すら覚え、うろたえた。
すぐさま逸らされ。白刃の如く研ぎ澄まされた空気を纏い座敷から出ていった弟は、その眼にどんな意思を込めたのか。
片目を穏やかに撓めている目の前の青年からは、何も読み取ることが出来なかった。
「今日来たのは、」
茶も待たず、向かい合うと同時に開かれた口。
「姉さんからの伝言を伝えに」
「紅葉の」
「そう。あの時も葬式の時も、ばたばたして言えなかったから」
微笑んだまま、唯葉は言葉を吐き出す。
「『思うままに生きよ。兄様、思えば貴方が一番自由であったかもしれぬ。私が不自由だったとは思わぬが、それでも。家名に傷をつけたこと、深く詫びるとともに許しを請いたい。貴方にだけは許されたい。不出来な妹で申し訳なかった』」
「な、」
「・・・これが伝えてほしいと言われた言葉です。確かに、お伝えしましたので」
ぐっと片手をついて頭を下げた唯葉は、妹の最期の言葉に茫然自失している青葉の瞳に光が戻るまでそのままの体勢で居続けた。
子供たちの笑い声が遠く響いた。青葉の妻が手作りのお菓子を振る舞う時間になっていた。
遠いな、と思った。
何もかも全てが遠かった。
何故妹は自分などに許されたいと思ったのだろう。
彼女が思うほど、青葉は妹を思わなかったというのに。
子供のころから妹も弟も青葉を遠く、置いていった。武道然り、勉学然り。劣等感の塊と化した青葉は妹のことも弟のことも一歩引いて、冷やかな目で見るようになった。
それを分からないわけがない。
慄く唇は音を出さない。
青葉は弟の頭を眺めながら、混乱する思考がこのままであればいいのにと思った。
自分がたどり着くこの思考の果ては、結局人でなしの思考なのだ。
唯葉がゆっくりと顔を上げる。自分たちとよく似た、鹿森家特有の顔立ち。
しかしその手は青葉とは違い数多くの血にまみれている。
弱かったがゆえに青葉は他者の重すぎる人生を背負わずに生きている。これは、この家に生まれ落ちた者としては奇跡に近い。
片や才能に満ちていたがために姉の命まで背負った弟。片やそれをただ眺めるに至った愚図の兄。
狂った主人を殺した妹は、弱い兄をどう思っていたのだろう。
自由だと思い、羨ましいと思ったろうか。
自分を殺した弟を、痛ましいと思ったのだろうか。
「兄さん、姉さんを許してあげてください」
「・・・あぁ」
許すも何もないんだ、と言おうとして、止めた。
「わかります」
唯葉はまた微笑みを浮かべたが、そこには酷薄な感情が滲んでいる。そんなことは昔からだと青葉は自分に言い聞かせた。
主人を殺し、どのような葛藤があったにしろ生きようとした紅葉。
主人が死ねばすぐさま咽喉を突き死ぬだろう弟。
青葉は唯葉を見た。
「何か話したの、紅葉と」
「俺たち姉弟が今まで交わした言葉以上に、話しましたよ」
紅葉が主人である保を殺し逃げたことが分かったとき、鹿森家には激震が走った。あってはならないことなのだ、そんなことは。
高月家からは何の音沙汰もなかったが、その沈黙を恐れたのは青葉だけではない。
どんな理由があろうとも紅葉が許されることはなく、生きている限り追われることになる。
後から聞いた話だったが、高月家も紅葉の処遇に戸惑ったのは事実らしかった。保の精神の崩壊は明らかであったし、なにより過去視の能力者は保が紅葉に殺してくれと懇願している様を見ている。
それは異様で、おぞましかった、とその過去を視た高月の女は囁いた。
一体、目の前の弟が紅葉となにを話したのか。想像もつかなかった。
それを今さらになって青葉は恥じる。
「・・・蛍一さまはなんて?」
外戚でありながら絶大な力を持ち、家を継げない代わりに当主の補佐、後見となることを義務付けられている蛍一は、唯葉の全てだった。
青葉の言葉に唯葉はただ首を振った。
何故死なないんだ?
紅葉が保を殺して逃げたという話しを聞いた弟の第一声はそれだったらしい。その言葉の本当の意味を、青葉が知ることはないだろう。
ふと、唯葉が窓の外に目を向けた。
いつの間にか、子供たちの声は聞こえなくなっていた。日は高いままだが時間は確かに過ぎていたらしい。
「随分長居してしまったな」
言って、腰を上げた唯葉を引きとめる。
「夕ご飯たべていきなよ」
「あぁ、ありがとう。でも遠慮しておくよ。お義姉さんによろしく」
「遠慮なんて。でも、そうだね。・・・足はあるの?」
「大丈夫。じゃあ、また」
大怪我をしているというのに、足取りに不安定さは微塵もなかった。
弟に聞きたいこと、言いたいことがいくつもあるのに言葉にならない。何も言うことができない。
優秀で、公明な視点を持ち、兄である青葉を軽蔑している弟は器用に靴を履き、首を傾げるように会釈して玄関から出ていく。ゆっくりとした足取りでまだ暑い日差しの中を歩いていく後ろ姿。それが消え、そろそろと日差しに赤みが混じる頃になっても青葉は突っ立ったままだ。
「青葉さん?」