24歳の原点
トイレへ入ると、消臭剤の匂いが鼻腔を伝い嗅覚を震わせて、無意識に溜め息を吐き、1度瞼を長い間閉じ、僕の心は落ち着いた。警察がマスターのカフェの電気を止めたのではないかと一瞬疑ったが、壁伝いに左手の指を這わせると、トイレ内の照明スイッチがあり、その先端をパチリ、と押すと、あっという間に白い光で空間は満たされ、僕はほっと一安心したのも束の間、左側の洗面台の壁に、無印良品の小さなメモ帳が立て掛けられてあった。僕は瞬間的に悟った。“これは悪魔のものである”、と。おそらく、昨日、悪魔は僕達がマスターの居るカウンターに移動する時、このメモをトイレで書いたのだろう、と僕は思った。
僕は尿意を押し殺して、そのメモを開いてみた。其処には、“悪魔の筆跡”で、丁寧に、また文字1つ1つが小さく書かれていた。そしてこう書かれていた。
このメモを見つけて読んでいるということは、もう俺は死んでしまっているのだろ
う。どうだい? 今まで俺がお前の負の感情だけで生きてきた苦しみが身に染みて
分かるかい? 鏡を見てご覧よ。俺そっくりの顔色になっていないかい?
僕はメモから素早く視線を移して目の前の鏡に映る自分の姿を見つめてみた。其処には、自分の顔色が分からないぐらい、泥水で汚れた僕の顔があった。分からない、そう胸の内で囁いて、再び悪魔の書いたメモを読み始めた。
…俺はさっきの会話で、“お前を道連れにして彼女の死んだ森で首吊り自殺を一緒に図ろう”、と、お前1人だけを自殺させて、苦しみの無い人生を送ってやろうと考えていた。しかしな、そんな苦しみの無い人生を彼女もお前も居ない世界でのうのうと生き続けたって、一体なんの得があるんだ? っていう疑問が浮かんできたんだ。だから話の冒頭でも話したけど、“自分で命を絶ったら…”、じゃなくて、“死んだらどうなる”かを、自分の目で確かめたくなったんだ。俺はお前の悪魔だからきっとろくな世界や物事は待ち受けていないんじゃないかと思う。けど、もしかしたら、首吊り自殺をした彼女と同じ世界で、この世界の何倍もの苦痛に苛まれながら、一緒に過ごせるかもしれない。その時間が1秒かもしれないし、永遠かもしれない。だから、その唯一の希望に一か八か賭けてみて、苦しみもがき続けながらタイムリミットで死ぬよりも、“彼女”と同じ死に方を俺はしたいんだ。今は面と向かってお前に今まで仲良くしてくれた感謝を述べる勇気は無いけれど、悪魔として生まれてきた割には、楽しい5年半を過ごせたと思う。本当に今まで有り難う。そして、俺が死んだら彼女を失った喪失感が津波のようにお前の精神に押し寄せて来るだろうけど、それを乗り越えて、立派に1人で生きていく力をつけて、新しい、お前と生涯を共にしてくれるような心優しい女性と幸せになって、お前は生涯を全うするんだ。お前の人生は、これからだぜ。
17
僕は細雨に落ち着いた雨に変わった渋谷区を抜けて、体に気持ちの悪い悪寒を感じながら彷徨い続け、2時間程掛けて、湾岸地区の一際高い、建設中の高層ビルに偶然にも辿り着いた。雨は、いつの間にか、ぴったりと止んでいた。しかし、ずぶ濡れの体には、凍えそうな風は耐えられなかった。僕はその屋上から灰色のシートが被された完成間近の高層ビルは、この周辺のオフィスビルのどれよりも、星の点在する夜空に1番近かった。僕は言いようの無い喪失感を抱きながら、そのビルの中へ入った。
20分程掛けて、屋上へ上がった。眠らない日本の首都、東京の夜景は僕を感無量にさせた。僕は、悪魔が死んでから、まだ、彼女のことが忘れられなかった。コンクリートに体育座りし、寒気のする体を縮込ませながら、灰色のジャケットの内ポケットから僅かにふやけて歪んだ高野悦子の「二十歳の原点」を取り出し、最初からゆっくりと読み始めた。屋上と、地上の気温の差は、僕の体の体温を著しく低下させた。そして体がだるくなってきた。
そうしてあの死んだ彼女から受け取った「二十歳の原点」の失われた頁の個所に到達し、読み進めていくと、ふいに胸の奥と目頭にとても鋭い痛みを感じ、それを堪える為に、文庫本を投げ出し、塗り立てのコンクリートの上で大の字となって体中の疲労が所々で凝固し、痛みを伴うようになった。何度も何度もあの失われた頁の文章が、頭の中で音声を発して僕を苦しませた。服が濡れている不快感を噛み殺して、重たく痛みを伴う瞼を下ろし、このまま凍死しても構わない、といったやけくそな感情のまま、意図的に意識を遠ざけていった。
意識が、瞼の裏が、赤く染まった時、僕は急に覚醒した。あまりの空腹の為に、目を覚ましたと言っても過言ではなかった。上体を上げて、未だ痛みの取れない瞼を開けると、大都会東京の海の背後から昇る朝日が僕の視線を釘付けにした。それはそれは今まで見たことの無い、胸やけに似た心を震わせる程の美しい朝日であった。ふと、腕時計に目をやると、時刻は、午前6時18分であった。
僕は空を染め上げる、朝日の暖かい赤い光に体を温められながら、宇宙に内包された心が肥大していく美しい調べが頭の中に突然流れ始め、今まで僕を苦しめてきた、大切な2人の存在を思い出として愛おしく思うようになった。
今の僕には、この切なくも儚いたった1度だけの朝日の光を浴びたことによって、これから先の幾多に渡る困難に対して、全力且つ全身全霊で立ち向かえる、そう確信した。あと4時間もすれば、新宿区の紀伊国屋書店新宿本店が開店するだろう。まず僕がやらなければならないことは、その本屋の店員に、“自分の持っていた「二十歳の原点」と、新品の「二十歳の原点」をすり替えて持ち去ってしまいました”と謝ることだろう。それで警察に通報され、逮捕されて“罰”を受けた後、“罪”を償うことになったとしても、そこから僕の新しい人生が始まるのだ。この大都会で悪魔も彼女も無しに、新しい出会いに刺激を受けて、この世界の全ての仕組みを証明するのだ。僕には、もう、神様の力が無いことはとっくに気が付いていた。おそらく、あの彼女の死んだ森で“夜空”というものを初めて見た瞬間から。眩い朝日が、この世界に光を齎す。まだ釈然としない僕の理論は僕の中の純白の世界で構築され、いつの日にか、この世界中の人々の迷いや苦悩を取り除くことができたらと、願って止むことがなかった。この思いはどんな辛い時も、僕を支える太い軸となり、明日の輝かしい朝日に繋がっていけばいいと、水平線に両手を広げた熟したばかりの太陽に向かって深く頷き、笑みを浮かべて屋上から降り、新宿区へ向かって雨水で光り輝くアスファルトを駆け足で走り出した。
了 2009年秋
参考文献 高野悦子 「二十歳の原点」(新潮文庫)