珈琲日和 その7
海や花火にプール等の自然に胸が踊る夏の嬉しさもうっとおしい暑さが長らく続くと、もうそのうっそうとした空気や哀愁漂う蝉の声にまでうんざりし始めてしまうように、何かと行事の多い冬の楽しさも凍ってしまうような寒さに凹まされてしまうものです。熱い熱いから、寒い寒いが口癖になってまだ間もないのに、寒がりな僕は石油ストーブに手を翳しながら早く春が来ないかな・・・なんて思っています。ついこの間まで、雪が降った事にはしゃいで店の前に大きな雪だるまを懸命にこしらえていたくせに。思えば、なんと自分勝手な感じ方なのでしょうね。
小太郎もどちらかと言えば温かい方が動きやすいらしくて寒いとじっと固まって、高速のサービスエリアの隅っこにでも売られていそうな吸盤付きの黒い毛むくじゃらのぬいぐるみかなにかの如くほぼ動きません。時々温かい所を見つけて少しズレるくらいです。
外は曇っているらしく、窓からはほんの僅かに明かりが滲んでいるくらいです。もともとそんなに窓からの陽光を期待出来るような立地と造りではありません。そんな暗い店なので、時々差し込む外の光がやけに神々しく暖かに見えるものです。なんだかモグラみたいですね。
また今日辺り雪が降るかもしれないな。溜息をついて、扉の向こうに見えるそれぞれの色ガラスの色をした雪の溶け残りを見遣りました。日照時間の短い暗くて寒い裏路地には、まだたくさん雪が残っていました。
僕が彼方此方のランプを灯して回っていた時、外国の子どもみたいなあどけないショートカットの髪をした可愛らしいブレザーの制服姿をした女の子が、些か不機嫌そうに眉間に皺を寄せて騒々しく入ってきました。
「ちょっとーマスター! 聞いてよー! ママったらねぇーー」
同じ裏路地にあるバーを経営する美和子さんの一人娘、高校生の彩子ちゃんです。
「ママったら、また男を連れ込んでたのよ!有り得ない!朝起きたら知らない男がキッチンに立って朝ご飯作ってんのよ!」
彩子ちゃんは今年受験生。お母さんの美和子さんはこの界隈でも有名な腕利き美人バーテンダーです。そのせいか、まるで日替わりのように変わるボーイフレンドの噂が絶えない女性でした。
「おやおや。でも今回の人は料理も出来るなんて良いじゃないですか」
「良くないわよ!それならそれで、ちゃんと紹介ぐらいして欲しいわよ!同居してる娘に無断で勝手にいるのよ!信じらんない!本当にママにはついていけない!」
彩子ちゃんはかなりご立腹です。彩子ちゃんの本当のお父さんは、彩子ちゃんが小さい頃死別してしまったと聞いた事があります。それから美和子さんがすぐに再婚したお父さんは最悪だったとも。それに懲りて、美和子さんは増々社交的になり解放されて、誰とも二度と結婚する気はなくなったのだと、以前ご本人が酔っぱらって店に立ち寄ってくれた時に珍しくこぼしていました。
「あたしは、もう何があっても男なんて信用しないの。男に食わされて生きてくなんて惨めったらしくて嫌よ。男に気を使って生きていくのも嫌。あたしはあたし。好きにするわ」
色っぽい泣き黒子が目立つとろんとした眼差しで、美和子さんは誰に向かって言うともなく愛用の朱塗りの煙管から立ち上る煙のように実にひっそりと言ったのです。僕はその様子を眺めながら、成る程、彼女のこの怪しく不思議な雰囲気に引き寄せられて後から後から相手が次々と現れるんだなと納得しましたっけ。その位美和子さんは魅力的な女性でした。
それにしても魅力的な美しい女性は一様に、人を引き込み虜にさせてしまう独特の世界をそれぞれ持っているのだなぁ・・・と、煙管から立ち上る煙をあたかも羽衣のように纏って席を立ち自分の店に帰って行く美和子さんの後ろ姿を見つめながら、僕は改めて関心させられました。
「ママと一緒に暮らすのはもううんざり! 寮付きの遠くの大学受けて絶対出てってやるから!」
「まあまあ。落ち着いて」
「ママの自分勝手な我が儘にはあたしはもうついていけないの!来年受験で必死になって猛勉強しなきゃいけないのに、自分が遊びに行きたいからって勝手に店をあたしに任せてどっかに消えちゃうし!あたしは水割りしか作れないのに!カクテルだって簡単なものしかわからないのに!」
「それでちゃんと営業出来ているんですから、大したものじゃないですか」
「アルバイトのジョンソンがいるから保っているようなものよ。で、も、あたしはバーテンダーになりたいわけじゃないの!勉強したいの!ママはちっともわかってくれない!」
不意に若い頃、親に反発してばかりいた昔の僕を思い出して笑ってしまいました。確か同じような事を言っていましたっけ。『親は僕の気持ちをちっともわかってくれない!』だけど、反対していた大学に進んだ時は仕送りをしてくれて、学生結婚して中退して働き始めた時も何も言おうとはしませんでした。ただ、黙って見守っていてくれました。今思えば、僕はかなり親不幸な息子だったと思います。いつの時代も親の気持ちは子どもにはわからないものなのですね。
「美和子さんなりに何か考えているのだと思いますよ」
「みんなそう言うけどね。ママの頭の中は、楽しく飲んだくれて、適当に店をやって、男の人と遊んでついでにセックスする事でいっぱいなのよ!外見に騙されて誰もわかっちゃいないの!バカみたい!」
「本当にそうでしょうか?」
「そうよ!決まってるわ!それ以外に何があるの?!」
そのあまりの勢いに、僕は答えに詰まり何も言えなくなりました。若さと言うものはそれ自体でもパワーのあるものです。それに更に的確な批評が加わればほぼ向かう所敵なしなのです。特に女性は本当に迫力があります。怖いくらいです。
彩子ちゃんはホットミルクとビターチョコレートを交互に口に入れながら、参考書を幾つか広げて、片っ端から読み耽り、必要とあらばマーカーで線を引き、それをノートにまとめました。そんな事を実に3時間程やっていたのです。僕がお昼ご飯のハム卵サンドを出した事すら気付かないくらいの集中力でした。本当に大学に行きたいのだなぁ。と感心しました。
「あ、これ食べたら行かなきゃ。友達のお姉さんに家庭教師頼んでるの」
「へぇー 家庭教師ですか」
「うん、そう。ママには内緒でね。あたしのおこずかいで教えてもらっているの。ほら。あたし、店に出てるから、代わりにおこずかいとしてかなり多くママに貰うようにしてるの」
「しっかりしてますね」
「そうそう。貰うとこはきっちり貰わないとねー。じゃ、マスターご馳走様」
ベビーピンクだとかミントグリーンだとかレモンイエローなんかの淡色がたくさん編み込まれたふわふわのマフラーを巻くと、鼻がつんとするような寒さをものともせずに、黒のローファーに黒のハイソックスだけの素足に短め丈に詰めた制服のチェックのスカートを翻して彩子ちゃんは軽やかに出て行きました。
それから何日か経った午後。久しぶりにすっきりした高い青空だったので、僕はチョコとナッツなんかがたっぷり入った大きなクッキーを食べたくなって黙々と焼いていました。
店内は濃厚な甘く芳ばしい香りが広がって、開け放たれた窓からは溶け残った雪も手伝いしんとした冷気が入り込んできていました。
小太郎もどちらかと言えば温かい方が動きやすいらしくて寒いとじっと固まって、高速のサービスエリアの隅っこにでも売られていそうな吸盤付きの黒い毛むくじゃらのぬいぐるみかなにかの如くほぼ動きません。時々温かい所を見つけて少しズレるくらいです。
外は曇っているらしく、窓からはほんの僅かに明かりが滲んでいるくらいです。もともとそんなに窓からの陽光を期待出来るような立地と造りではありません。そんな暗い店なので、時々差し込む外の光がやけに神々しく暖かに見えるものです。なんだかモグラみたいですね。
また今日辺り雪が降るかもしれないな。溜息をついて、扉の向こうに見えるそれぞれの色ガラスの色をした雪の溶け残りを見遣りました。日照時間の短い暗くて寒い裏路地には、まだたくさん雪が残っていました。
僕が彼方此方のランプを灯して回っていた時、外国の子どもみたいなあどけないショートカットの髪をした可愛らしいブレザーの制服姿をした女の子が、些か不機嫌そうに眉間に皺を寄せて騒々しく入ってきました。
「ちょっとーマスター! 聞いてよー! ママったらねぇーー」
同じ裏路地にあるバーを経営する美和子さんの一人娘、高校生の彩子ちゃんです。
「ママったら、また男を連れ込んでたのよ!有り得ない!朝起きたら知らない男がキッチンに立って朝ご飯作ってんのよ!」
彩子ちゃんは今年受験生。お母さんの美和子さんはこの界隈でも有名な腕利き美人バーテンダーです。そのせいか、まるで日替わりのように変わるボーイフレンドの噂が絶えない女性でした。
「おやおや。でも今回の人は料理も出来るなんて良いじゃないですか」
「良くないわよ!それならそれで、ちゃんと紹介ぐらいして欲しいわよ!同居してる娘に無断で勝手にいるのよ!信じらんない!本当にママにはついていけない!」
彩子ちゃんはかなりご立腹です。彩子ちゃんの本当のお父さんは、彩子ちゃんが小さい頃死別してしまったと聞いた事があります。それから美和子さんがすぐに再婚したお父さんは最悪だったとも。それに懲りて、美和子さんは増々社交的になり解放されて、誰とも二度と結婚する気はなくなったのだと、以前ご本人が酔っぱらって店に立ち寄ってくれた時に珍しくこぼしていました。
「あたしは、もう何があっても男なんて信用しないの。男に食わされて生きてくなんて惨めったらしくて嫌よ。男に気を使って生きていくのも嫌。あたしはあたし。好きにするわ」
色っぽい泣き黒子が目立つとろんとした眼差しで、美和子さんは誰に向かって言うともなく愛用の朱塗りの煙管から立ち上る煙のように実にひっそりと言ったのです。僕はその様子を眺めながら、成る程、彼女のこの怪しく不思議な雰囲気に引き寄せられて後から後から相手が次々と現れるんだなと納得しましたっけ。その位美和子さんは魅力的な女性でした。
それにしても魅力的な美しい女性は一様に、人を引き込み虜にさせてしまう独特の世界をそれぞれ持っているのだなぁ・・・と、煙管から立ち上る煙をあたかも羽衣のように纏って席を立ち自分の店に帰って行く美和子さんの後ろ姿を見つめながら、僕は改めて関心させられました。
「ママと一緒に暮らすのはもううんざり! 寮付きの遠くの大学受けて絶対出てってやるから!」
「まあまあ。落ち着いて」
「ママの自分勝手な我が儘にはあたしはもうついていけないの!来年受験で必死になって猛勉強しなきゃいけないのに、自分が遊びに行きたいからって勝手に店をあたしに任せてどっかに消えちゃうし!あたしは水割りしか作れないのに!カクテルだって簡単なものしかわからないのに!」
「それでちゃんと営業出来ているんですから、大したものじゃないですか」
「アルバイトのジョンソンがいるから保っているようなものよ。で、も、あたしはバーテンダーになりたいわけじゃないの!勉強したいの!ママはちっともわかってくれない!」
不意に若い頃、親に反発してばかりいた昔の僕を思い出して笑ってしまいました。確か同じような事を言っていましたっけ。『親は僕の気持ちをちっともわかってくれない!』だけど、反対していた大学に進んだ時は仕送りをしてくれて、学生結婚して中退して働き始めた時も何も言おうとはしませんでした。ただ、黙って見守っていてくれました。今思えば、僕はかなり親不幸な息子だったと思います。いつの時代も親の気持ちは子どもにはわからないものなのですね。
「美和子さんなりに何か考えているのだと思いますよ」
「みんなそう言うけどね。ママの頭の中は、楽しく飲んだくれて、適当に店をやって、男の人と遊んでついでにセックスする事でいっぱいなのよ!外見に騙されて誰もわかっちゃいないの!バカみたい!」
「本当にそうでしょうか?」
「そうよ!決まってるわ!それ以外に何があるの?!」
そのあまりの勢いに、僕は答えに詰まり何も言えなくなりました。若さと言うものはそれ自体でもパワーのあるものです。それに更に的確な批評が加わればほぼ向かう所敵なしなのです。特に女性は本当に迫力があります。怖いくらいです。
彩子ちゃんはホットミルクとビターチョコレートを交互に口に入れながら、参考書を幾つか広げて、片っ端から読み耽り、必要とあらばマーカーで線を引き、それをノートにまとめました。そんな事を実に3時間程やっていたのです。僕がお昼ご飯のハム卵サンドを出した事すら気付かないくらいの集中力でした。本当に大学に行きたいのだなぁ。と感心しました。
「あ、これ食べたら行かなきゃ。友達のお姉さんに家庭教師頼んでるの」
「へぇー 家庭教師ですか」
「うん、そう。ママには内緒でね。あたしのおこずかいで教えてもらっているの。ほら。あたし、店に出てるから、代わりにおこずかいとしてかなり多くママに貰うようにしてるの」
「しっかりしてますね」
「そうそう。貰うとこはきっちり貰わないとねー。じゃ、マスターご馳走様」
ベビーピンクだとかミントグリーンだとかレモンイエローなんかの淡色がたくさん編み込まれたふわふわのマフラーを巻くと、鼻がつんとするような寒さをものともせずに、黒のローファーに黒のハイソックスだけの素足に短め丈に詰めた制服のチェックのスカートを翻して彩子ちゃんは軽やかに出て行きました。
それから何日か経った午後。久しぶりにすっきりした高い青空だったので、僕はチョコとナッツなんかがたっぷり入った大きなクッキーを食べたくなって黙々と焼いていました。
店内は濃厚な甘く芳ばしい香りが広がって、開け放たれた窓からは溶け残った雪も手伝いしんとした冷気が入り込んできていました。