心と口と行いと生活で
の。だから自分が楽に成りたいが故に、貴方の事そっちのけで睡眠薬自殺なんかしたのだ
と思うわ。貴方にここまで愛されているという事実にも気付かずに。人は愛される事に依
って、強く成れるような気がするの。だから此の、貴方の世界で生き続けて居るのよ。私
も貴方の事を愛しているわ。きっと此の愛は私の中で永遠のものだと思う。貴方が現実の
世界で十一年間も睡眠薬自殺をした私だけを愛してくれた御蔭よ。だから私は、此の残り
の命をかけて、貴方の事を愛し続けるわ。本当に有り難う…」
先輩はそう言い終わると、.しだけ背伸びをして私の唇にキスをした。其の体温は、私
が体感したものの中で、一番温かいものだった。其れは淹れ立ての珈琲よりも私の心を暖
めてくれた。そして私達は御互いに長い口づけを終えると、手を繋いで王女の寝室へ向か
い、何度も結ばれ合った。其の行為は陽が暮れ、暗闇が下り、梟の鳴き声が聞こえても、
果てしがない様に続いた。
目が覚めると、私の隣には裸体の先輩が眠って居た。私はベッドから立ち上がり、服を
着ると、窓辺に立ち、すがすがしい日曜日の朝の陽の光を浴びた。そして思った。私は先
輩の自殺を食い止めたのだと。先輩は現実の世界に蘇ったのだ。
私は螺旋階段を下りて調理場で珈琲を淹れ、其処の壁に凭れながら其れを一杯飲み、残
りをトレイに食器一式と一緒に置いて王女の寝室へと戻った。すると白い裸体の先輩がベ
ッドの上で上半身を起こしたまま、窓の外の景色を見つめて居た。先輩は私が王女の寝室
の扉を閉じた時に私の方へ振り返り、微笑みを浮かべた。その表情は、昨日の其れとは全
く異なり、非常に大人びた笑みであった。
「お早う」
「お早う御座います」
「なんだか、とても長い夢から覚めたみたい」
先輩は私から珈琲の入ったカップを受け取り、両手で包み込むと、ベッドの右側に在る、
大きな鏡台に視線をやった。
「なんだか、鏡に映っている自分を見ると、自分が自分じゃないみたい」
先輩はまた笑みを零した。そして珈琲を一口、口に含んだ。
「ますます美しさが増した様に見えますが」
「冗談は顔だけにしといてね」
先輩が笑うと私も自然と声を上げて微笑んだ。確かに先輩は、二十一歳の頃のあどけな
さが消え、女性として成熟していた。私も窓に映る自分の顔を見てみると、確かに私も十
九歳の頃の面影が薄れてはいたが、顔つきや心は其の頃のままだった。
先輩が服を着、私がトレイを調理場へ持って行き、後片付けを終え、私達二人が白亜の
巨城を出てふと其の外観を見上げてみると、衝撃のあまり、声を上げる事もできなかった。
なんと、白亜の巨城の外観は何百年も経過した様に風化し、朽ち果てており、至るところ
に苔が生え、蜘蛛の巣が張っていたのだった。
「…どういう事? 昨日此処に来た時には綺麗で立派な巨城だったのに、一日でこんな廃
墟になるなんて……」
先輩は非常に困惑した様子で私に顔を向けた。
私達はもう一度白亜の巨城の中へ入り、礼拝堂や調理場、会議室や牢屋を見て回ったが、
先程までの華やかさが嘘の様に消えていた。私達はぼろぼろの螺旋階段を上がり、王女の
間に入ると、此処もまた見事に寂れていて、王女の寝室に向かい、中に入ると、なんと、
ベッドの上に一つの白骨化した死体が横たわっていた。
五 出口の無い森
廃墟と化した白亜の巨城の巨城が森の奥に突如として現れ、其の寝室から一人の若い女
性と思われる白骨化した死体が見つかった、というニュースは大きな話題と成り、新聞や
インターネットの世界を騒がせ、世間をあっといわせた。其の報道の数週間後、司法解剖
の結果、其の女性の死因は?睡眠薬自殺?と断定されたが、其の女性がどんな人物なのか
という事は一切分からずじまいであった。
先輩は生前内定が決まっていた会社で働いており、私と先輩以外の誰も彼女が睡眠薬自
殺をして一度死んでいる事等信じなかった。私達二人は直ぐに籍を入れ、結婚した。
私は白亜の巨城から発見された白骨化した死体が、?王女?のものであると考えている。
王女は、先輩の代わりに睡眠薬を飲み、代替自殺したのだ。私は何故か、王女の事を思い
出せなくなってしまった。王女との思い出も忽然と消えてしまった。そして、根本的な問
題として、何故、此の現代と不釣り合いな建築物である、白亜の巨城が毎週土曜日に成る
と姿を現したのか、全く訳が分からなく成った。しかし、一つだけ確実である事は、?王
女?という存在の命が、私の記憶の中から殆ど全て消え失せてしまったという事だけであ
る。だが、どうして、私の記憶の中で起こった出来事が、現実に影響を及ぼすのだろう。
私と先輩は今でも土曜日に成ると、地下鉄を乗り継ぎ、市電に乗って、今では有名な観光
スポットと成ったあの森へ行き、白亜の巨城を訪れる。バロック音楽に似た、パイプオル
ガンの音は聞こえて来ない。私と先輩の思い出の場所が観光客達に依って奪われた事に、
私は寂しさを感じる。そして、先輩と巡り合い、現実の世界へ蘇生させるまでに過ごした、
王女との空白の時を失ってしまった事に、深い喪失を感じる。私はよく、観光客達用に綺
麗に補修された、白亜の巨城の王女の間の窓辺に立つ先輩の後ろ姿を見ると、何故か無性
に切なく、悲しく成る。私は王女の御蔭で、ようやく深い森から命溢れる世界へと出る事
ができたのだが、此の言い様のない、虚しさの正体は一体何なのであろうか、原因が分か
らない。其の問いを何度私自身に問い掛けたか分からない。もしかしたら──此れは先輩
には口が裂けても言えない事であるが──、私は王女の事を先輩よりも愛しているのかも
しれない。王女がどんな人物であったか分からなくなったとしても、死者を愛する想いは
消えないし、意味の無い事でもないのだから。私は不幸な人間なのだろうか。それとも、
愛する人と一緒に生きていけるのだから、幸せな人間なのだろうか。このまま本心を捻じ
曲げずに生きていく事は悪い事なのだろうか。罪になるのだろうか。私が愛している女性
─王女─は、どんな顔をしているのだろう。どんな笑みを浮かべるのだろう。私が手に入
れたものは、?永遠?よりも尊いものであると、誇りをもって言えるものなのだろうか。
私の脳裏に浮かぶバロック音楽もまた、時が経つにつれて、どんどん音程が狂ってきてい
て、終いには消滅し、二度と思い出せなくなるような気がするのだ。もう一度言う。私は
先輩を愛しているのではなくて、本当は?王女?を愛しているという事を。しかし其の王
女は、先輩の命と引き換えに、美しく荘厳な白亜の巨城と共に、跡形も無く消えてしまっ
たのだ。
了 2010 晩春
作品名:心と口と行いと生活で 作家名:丸山雅史