R-10N
結論から言えば、人工知能の進化は成功した。
国内初、かつ世界初の人工知能搭載アンドロイドが社会に組み込まれた元年───井ノ内は高校生だった。
ニュースは一年程、人間同様の外見とAI知能を持った「新社会人」の話題で加熱し、何かというとそれだったが徐々に沈静化して、井ノ内が大学を卒業する頃には全く聞かなくなっていた。
話題にならないという事は、問題無く彼ら彼女らが社会に溶け込んだという事で、人間に混じって働くその姿は日本だけでなく世界中で見られるようになったのだった。
井ノ内が新卒で就職した大手企業にも、勿論、彼らは働いている。
毎朝通る社員出入口の警備員や受付の女性がそうだと最初の上司から言われた時、井ノ内はただ、へえ、そうなんですか、と答えて苦笑された。
「そうか、ロボットがごく当たり前な世代なんだなあ、井ノ内は」
四十後半の上司は、そう言いながらも受付の彼女に
「おはよう」
と親しげな様子で言うのだった。
ポップアップメッセージが一斉に昼を告げた。
井ノ内は端末を閉じ、社員食堂へ向かうためにブースから出る。入社から数年が経っていた。
二十一世紀も後半に入って、機械文明はいっそう栄えている。一方、二十世紀末から叫ばれていた環境問題は、学者達の提案により多少改善の余地を見せていた。
歴史は概ね安泰に過ぎてゆくようだった。
食堂に向かう廊下で、井ノ内は少しだけ歩幅を広げて、よく見知った後ろ姿に追い付く。
「リオン」
横に並んで呼び掛けると、ほんの少しだけ間を置いて振り向く。
振り向くまでの反応速度が、彼が造られたものだと教えていた。
優しい声、薄茶がかった黒髪に色白の、どこか薄幸そうな彼の風貌を井ノ内は気に入っている。型番をR-10Nという、少し旧型のアンドロイドの彼は、リオンと呼ばれて親しまれていた。
「こんにちは、井ノ内さん。これから昼食ですか?」
ごくありふれた量産型のはずの彼だが、学習するシステムを搭載している為、やわらかな微笑を井ノ内に向ける。おもわず微笑み返して、井ノ内は問い掛けに答えた。
「ああ」
笑みを向けられたアンドロイドは、感情の基盤に笑みを重ねてそれを記憶する。微笑まれた事のない赤ん坊が笑わないのと原理は同じだ。
知識は大量に積まれているが感情は置かれた環境によって学習するのだという。
様々な感情を学習するが彼らが暴走しないのは、制御システムが完璧だからだ。日本の開発チームが世界に誇るシステム───大学で井ノ内はそう学んだ。
リオンはどちらかと言えば初期型に位置するが、その微妙な仕草や声は、まるで人間の様に見える。
井ノ内は、リオンのうっすらと青味がかった人工眼球に真っ直ぐみつめられ、どきりとして目を逸らした。
ほっそりした身体は───全身が人工のものだとわかっているのに、唇は甘そうで、指先は繊細だ。
「わ、…」
廊下の角を曲がった所で、向かって来ていた女子社員の一団にぶつかり、リオンと井ノ内はほんの一瞬、揃って壁際に重なった。
「きゃ、ごめんなさい」
「すみません、大丈夫でした?」
重なった身体のしっとりした重みに、井ノ内は内心焦りながら
「ああ、大丈夫。あんまり広がって歩くと危ないから、気をつけて」
冷静に、と自分に言い聞かせて彼女達に微笑んだ。その手はまだ、偶然を装って頼り無げな肩を抱いている。
薄く、細い身体。けれど、確かに存在する重さ。
頬に触れた細い髪───
「…大丈夫、かい。…リオン」
まったくこれじゃ変態じゃないか、と半ば反省しながら井ノ内は言った。
少しばかり乱れた髪を指で梳いて、リオンは
「はい。ありがとうございます」
とにっこり笑う。
あまりに純粋で透明なその笑顔に、井ノ内は暗い下心を恥じて俯いた。
新人の頃に見掛けた彼に、井ノ内は一瞬で目を奪われた。たおやかという言葉そのものだった。
元からの仕様でにこりともしないアンドロイドは少なくない。だがリオンは、いつもどこかほんのりと寂しげな微笑と雰囲気をまとって、そこにいたのだ。
気になるんだと言うと、同僚達は大笑いした。ロボットが気になるなんて疲れてるんじゃないのか、と。
井ノ内は苦々しい顔をしながら、それでも笑ってやった。むきになって言い返すと、リオンの立場を悪くするような気がしたからだ。
流通の裏で、アンドロイドが性的商品として扱われていた事件が発覚したばかりの頃だった。
感情を抱いてはいけないのは人間の方だ、と井ノ内は自らを戒めて心に誓った。
もう二度と、誰にもこの想いを告げまいと。
ある朝、コーヒーを飲みながらニュースサイトを流し見ていた井ノ内は、機械音声が読み上げた内容に耳を疑った。
震える手がやっとの事でテーブルにコーヒーカップを置く。嘘だ、と呟いて、慌てて部屋を出た。
人間が睡眠を取るように、アンドロイドも眠る。大抵は働く施設内部にそれ用の部屋があり、アンドロイド達はそこで決められた時間、システムをダウンさせ、同時にメンテナンスも行う。
井ノ内が会社に辿り着いた時、社員出入口では警備のアンドロイドの夜勤と日勤が交替した所だった。
「おはようございます。お早いですね」
毎朝会う彼は少し不思議そうに人間じみた挨拶をしたが、井ノ内はIDをかざして早口で尋ねる。
「外商部の井ノ内武美だ。リオンは起きているか?」
「リオン…?」
わずかに顔をしかめたアンドロイドに井ノ内は苛々と捲し立てる。
「事務課の、R-10Nだ。今どこにいる?」
「ああ、R-10Nでしたら、起きていますよ。事務課で作業中です」
「ありがとう」
清掃マシンが動く音の他にはほぼ無音の廊下に、井ノ内が走る足音は響いた。
事務課の入口でIDをかざし、名乗って声紋を認証させる。所属と異なる部署に出入りする時には必ずしなければならない認証だった。
ドアが開くのも待てずに、井ノ内は開こうとする隙間に無理やり身体を捩じ込んだ。
あるはずのない物音に、リオンが立ち上がった。
「……井ノ内さん?」
ずかずかと近付き、井ノ内は淡い水色のワイシャツの肩を掴んだ。
処理能力がついてこないのか、それとも対応のマニュアルを検索しているのか、リオンは無防備に井ノ内を見上げている。
「───知ってたのか」
押し殺した声に、リオンは唇を開いた。けれど何も言えずに、どこか悲しそうな顔をする。
これが人間じゃないなんて、と井ノ内は震える手を必死で抑え、
「知ってたんだな」
また、低く言った。
リオンは観念したように小さくうなずく。
「───どうしてだ!」
不意に声を荒げた井ノ内に、リオンはびくりと身体を震わせた。
「どうして…!」
嗚咽するように、叫ぶように、井ノ内は声を振り絞る。目を伏せたリオンは、自分の肩を掴む井ノ内の手にそっと触れて、ごめんなさい、と囁いた。
ニュースは、R-10N型に記憶媒体が短命であるという欠陥があること、入替を進めてきた業者が稼働中の最後の数体を今日一斉に入替処分することを伝えていた。
壊れたように、けれど静かに謝罪の言葉だけ繰り返すリオンを、井ノ内は唐突に、強く抱き締めた。
静寂が訪れる。