煙草とキスと飴玉と
想いを鞄に詰め込んで
参ったな、と喉の奥で呟く。
本来必要だと思われるものなど何一つ入っていない鞄は、それでも今の彼には教科書を一杯に詰め込んだそれよりも重い。変な考えを起こしたりしなければと後悔した。
人気の無い非常階段。陽当たりの決して良くないそこは今の時期、ブレザー姿でいてはどうしても躰が冷える。コートなりマフラーなり持って来れば良かったと思ってみても、それも今更な事だった。
授業開始の鐘が響く。
単位など、疾うに足りていない。出席していると言えるのは、最早英語だけだ。それ以外の時間は、非常階段の踊り場で寝て過ごすのが常だった。
冷たい床に寝そべる。いつも枕代わりにしている鞄は、けれど今日ばかりは潰してしまう訳もいかず、仕方なしに曲げた腕に頼った。
手の甲に伝わる鉄の冷たさが痛い。それでも目を閉じれば、うとうとと微睡みがやって来た。
「おいお前、ここで寝る気か」
覚えのある声が降って来る。次いで慣れた煙草の匂い。
重い瞼を起こせば、着崩したスーツが覗き込んでいた。
「またサボりか? 凝りねえな、お前も」
「……なんでいんの」
彼は内心動揺したが、それもこの男には伝わらないのだろう。煙と共にここ寒ぃな、なんて洩らして傍らに腰を降ろした。問いに対する答えは無い。
寝返りを打つふりをして距離を縮めた。冷えた躰に温もりが嬉しい。
「センセー、それちょーだい」
目当ては、相手の唇に咥えられている。
この男に喫煙を咎められて以来、彼は大好物を已めていた。けれどいざ目の前にすると、どうしても欲しくなる。
「頼むから堂々と強請ってくれるなよ」
困ったように笑いつつも、不良教師は上着の内側からパッケージを取り出した。ライターと共に差し出される。
「センセーのそゆとこスキよ」
とびきりの笑顔を振り撒くも、はいはいなんて流された。これではどれだけ言葉が伝わっているのかなど、解ったものではない。
上体を起こし、向かい合うように移動する。
「センセー、オレ学校やめるんだー」
「ほお〜」
どうせ話が伝わっているのだろう。薄い反応がそれを示している。
「でもってセンセー、オレそっちがいー」
「ほお〜って……は?」
次の反応はそれなりに彼を満足させた。奇妙なものでも見るような表情で固まっている。
彼の視線は、そんな教師の口許に注がれていた。
「この前はくれたよねー?」
にこにこと首を傾げば、傷んだ茶髪がふわりと揺れる。
男が煙草の銘柄を変えたことなど、彼は疾うに気づいていた。それも自分が愛煙していたものと同じであることも。
「最後だし、ちょーだいよ」
以前、火を着けた煙草を目の前の男に奪われたことがある。それはこの非常階段で、持っていた箱の最後の一本で。泣き真似をして返せと強請れば、それがバレて誤魔化すように、紫煙を喫んだその唇にキスをされた。
ガキは飴でも咥えてろと、頭の上からいくつもの空色を降らされて。悔しいから総て拾って、煙草の空箱一杯に詰め込んだ。
その甘さが、今でも忘れられない。
「ちょーだい? センセ……」
甘えた声に、彼は我ながら寒いななどと思いながらもより距離を詰めた。慣れた匂いに混ざったムスクが、くらりと脳髄を酔わせる。
煙草を持った大きな手が、まだ幼さの残る彼の頬に触れた。
「ばーか」
口を開くなり、フーッと煙を吹き掛けられる。
油断していた。目に滲みて痛い。
「っ、なにすんだよー」
涙目での抗議に対し、教師は彼の茶色い髪を乱暴に撫で回した。
「お前から誘うなんざ十年早えよ」
「ひっでぇのー……」
「色気が出てから出直せ」
仕上げとばかりにぽんと一撫でし、短くなった煙草を携帯灰皿で揉み消す。
不満気に突き出された茶髪の厚ぼったい唇は、やはりこの男好みのそれで。少し勿体ない事をしたと教師は小さく苦笑した。
「そーだ、センセー。これあげる」
彼はおずおずと、今朝から重たかった鞄を差し出す。
「オセワニナリマシタ」
「いや、いらねえし。しかも棒読みだし」
「いーから貰ってよー」
心は溢れんばかりに込められている。だがそれを素直に表現できる程、彼は可愛い性格をしていなかった。
「センセー、大切なのは中身よー」
回りくどいヒントは、せめてもの恩返し。どうしようもない問題児を見放さなかったのは、年若いこの英語担当だけだ。そこに下心があったのだとしても、彼にとっては登校する理由になっていた。
それだけで充分である。
望んだものは貰えなかったが、本来の目的だけは果たしたい。
渡すか否かをずっと迷っていたけれど、重さを堪えて折角持って来たのだ。貰ってくれても罰は当たらないだろう。
「今までありがとー、センセー」
しおらしく笑えば、鞄の重みが彼から教師の手に移動した。――刹那、留守になった手を取られ、何かがどさりと落ちるのを聞いた。力任せに引き寄せられる。
勢い余ってぶつかっただけであるかもしれないそれは、記憶よりも柔らかくて。すぐに離れていったたそこが、まるで睦言のように低く囁いた。
「“色気が出てから出直せ”って言ったよな」
「え、」
「意味解るか?」
搗ち合った瞳は、常にはない真摯さを帯びている。苦い煙草の残り香が、名残惜し気に鼻腔を抜けた。
「最後にするつもりなんか、更々ねえんだよ」
「センセ――」
小さな呟きごと唇を奪われる。その甘さが泣きたくなる程、彼の心を満たしていった。
落ちた衝撃で鞄から、沢山の空色が溢れ出る。
踊り場にからんころんと音を立てて転がって行くそれは、近頃茶髪の男子高生が必死になって掻き集めているらしいと、巷で噂の飴玉だった。
END