煙草とキスと飴玉と
煙草とキスと飴玉と
「コラ、不良生徒。そこでなにしてる」
非常階段の隅で掛けられた声に茶髪がのろりと振り返る。大粒のアーモンド形の瞳は眠そうに瞬きを繰り返し、ふっくらと柔らかそうな唇には、紫煙を上げたケントマイルドロングが咥えられていた。
「またサボりか? お前の担任が真っ赤な顔して怒ってたぞ」
「あ、そう……」
特に興味など無さそうな応えに思わず苦笑する。歩みを寄せてすぐ傍らに立つも、彼はそれを気に留める事もない。
「午後一は俺の授業なんだからちゃんと出ろよ。このままだとマジでヤバいぞ、お前」
「んー……」
ぼやけた返事に再び苦笑し、歳若い教師は身を屈めて生徒の口許に指を伸ばした。力なく咥えられていた煙草は呆気なく奪われて、今は教師の薄い唇に挟まれている。
「あー……オレのヤニー……」
返せ返せと弱い力で服の裾を引っ張る。その表情はまるで、大好きなおもちゃを取り上げられた子供の様だ。
「煩ぇよ、ガキが。禁煙しろ禁煙」
ぐしゃぐしゃと乱暴に茶髪を撫でると、腫れぼったい唇が不満げに突き出され、厚みと色味が一層増した。
「最後の一本だったのに……」
呟く声は、僅かに震えた涙声。俯いてしまってからはもう、何度呼び掛けても返事はなかった。
(おいおい、マジかよ)
教師である立場上、生徒の喫煙を咎めるのは当然の行いだ。けれども、煙草を取り上げただけで泣かれるとは思ってもみなかったので、可笑しな罪悪感に見舞われる。
肺一杯に吸い込んだ煙が、溜め息となって視界を霞ませた。
「わーったよ、返す。返すから機嫌直せ。な? 俺が苛めてるみたいだろ」
何とか泣くのを已めて欲しいと宥めても、細い肩は震えるばかりでなかなか顔を上げようとはしない。それに焦れて、茶色い猫っ毛の下を覗き込んだ。
「………ク……っ」
「……お前なあ」
思わず責める様な視線を送る。
泣いてなどいなかった。寧ろ笑いを堪えて喉を引き攣らせ、吹き出しそうな感情を唇を咬み締める事で遮っている。
だが相手にそれがバレたと悟ると、耐え兼ねてぶはッと空気を吐き出し、弾かれた様にケラケラと笑い始めた。
「センセーも大概不良教師だよね〜」
ひぃひぃと腹を抱えて笑いながら、普通は泣いたくらいで煙草を返す教師などいないと指摘する。
「悪いか。自己責任だろ、こんなモン」
「悪くない、悪くない。オレそゆとこ結構スキよ」
ニカリと笑う口許の左側には八重歯が覗いていた。常時眠たそうに半眼していた瞳は、笑うと猫の様な糸目になる。
笑うだけでこんなにも印象が変わるものかと感心しては、余程拝めることのないその表情に覚えず見入った。
「ねえセンセー、煙草返してくれんでしょー?」
無邪気に手を差し出すその姿を目にすると、悪戯心を擽られる。咥えていた煙草を指に挟んで口から離すと、益々期待に満ちた瞳がキラキラと注がれた。
「返してほしいのか」
「モチ」
喜び勇んで首肯すると柔らかな茶髪がふさりと揺れる。それに一瞥をくれて遣り仕方ねえなと呟くと、もう一度名残惜しげに紫煙を喫んだ。
人差し指と中指の間に目当ての物を添えた手を、潔く相手に差し延べる。だがそれを受け取ろうとした卑しい指を巧みに避け、白い頬に触れ顎を軽く持ち上げた。
「センセ……?」
不可解に瞬く大粒のアーモンドは色素まで薄く、食べてしまいたい衝動に駆られるも流石にそこはグッと堪える。その代わりぷっくりと色づいた彼好みの唇をそっと食み、舌で歯列を割り開いて先刻吸い込んだ主流煙を注ぎ込んだ。
「……っ……ん……」
見開かれた眼には動揺が浮かび、大好物と共に口腔を犯した舌と唾液に喉が鳴る。急激に上昇した体温の所為で、躰の力が全て奪われた様な錯覚に陥った。
唇が離れていく頃には半ば放心状態で、糸を引いた互いの唾液を見ては頬が真っ赤に火照る。
「まあこれで我慢しろや、未成年」
朱色に染まった顔を満足げに見下ろす目は、意地悪く細められていた。今の今まで触れていたその薄い唇に、当然のように煙草が帰って行く。
「…………オレのヤニぃ……」
諦め悪く口を吐いた言葉を鼻で笑われて、雑な手つきで髪を撫でくり回された。
「酒と煙草はハタチになってから……だ。じゃねえとお前このまま身長止まるぞ」
コンプレックスを容赦なく抉る発言に低く呻き、深い溜め息と共に項垂れる。
「汚ぇのー……」
「煩ぇ、ガキは飴でも咥えてろ」
何処から取り出したのか大量の飴を茶色い髪の頭上から降らせ、糖分はきちんと摂っておけと煙草を咥えた聞き取り難い声で言う。
「どうせ飯もろくに喰ってねえんだろ? そんなんじゃ頭働かねえぞ」
「……痛いよ」
「そりゃ良かったな。いい刺激になっただろ」
全然良くないと不満げに唇を突き出すと、そんな口してるとまたキスするぞと脅された。慌てて口を引き結び、鳴り響いた予鈴にふと顔を上げる。
「ヤベ、次授業だ」
慌てた様子で煙草を揉み消し携帯灰皿に入れると、その教師はもう行くからと再度髪を撫で回す。
「午後の授業はちゃんと出ろよ」
言い残して校舎に入って行った後ろ姿を睨めつけて、彼は最後にボソリと文句を垂れた。
「誰が出るか、不良教師」
午前中の風は火照りが引いた頬にもまだ冷たく、散らばった飴は仕方なしに掻き集める。
集め損ねた最後の飴を拾い上げると、袋を破いて中身を取り出す。空色のそれを口の中に放り込み腹癒せにガリガリと噛み砕きながら、空になった煙草の箱に入るだけ飴玉を突っ込んだ。
「甘いー……」
口に広がる甘さに顔を歪めて、まだ欠片の残るそれを無理矢理飲み込む。飴と同じ色をした秋晴れの空は爽やかに澄み渡り、届かないとは知りつつも、先月に比べて高くなってきたそれに彼は自分の白い手を伸ばした。