彼女の不安
手のひらに急激な痛みが走った。しっかりと握りしめていた木剣を無理矢理もぎ取られたのだから無理もない。
「それまで!」
宮子が試合の終了を宣言した。
「車出すから、そこで待っててね。」
宮子はそう言って神社の駐車場へと向かっていった。試合が終わった後の事はほとんど覚えていなかった。道夫の常識外れな実力を目の当たりにした事や、彼から露骨に拒絶の言葉を投げかけられた事が原因だったのは言うまでもない。
程なくして制服に着替えた道夫が道場から現れた。
「あ…」
香奈子は声をかけようとしたがやめた。先刻の試合での彼の一言が重くのしかかっていた。道夫も香奈子を無視した。気まずい沈黙が流れる。
「お待たせ!さあ、乗って!」
二人は黙ったまま、宮子が運転する2ドアの灰色のスポーツカー(日産GT-R)に乗り込んだ。夜の町並みに、まるで飛行機のコックピットのような運転席の計器のランプが鮮やかに浮かび上がる。
「あれ、何も喋らないの?」
沈黙を守る二人を怪訝に思った二人に宮子が水を向けた。しかし二人はそれでも口を開こうとしない。
「筒井君、何怒ってんの?」
「別に怒ってませんよ。」
仏頂面のまま、助手席の道夫は素っ気なく答えた。こういう時の道夫は決まって不機嫌なのを宮子は知っていた。その原因が彼の後ろに座っている彼女にある事も。
「香奈子ちゃん、試合、どうだった?」
「え、えーっと、その…」
会話は続かなかった。
当初、宮子は道場の事やそこでの道夫の様子をおもしろおかしく話すつもりだったが、道夫の態度がそれを頑なに拒絶していた。
元々それほどたいした距離じゃない事もあり、気まずい空気を車内に充満させたままGT-Rは道夫の家の前に到着した。
「そういえば香奈子ちゃんの家はどこたっけ?送ってくけど。」
「あ、あたしの家はそこなんで、一緒に降ります。」
「え、そうだったの?」
「はい。今日は、その、ありがとうございました。」
問答無用で道夫を先に車から降ろした、香奈子と女同士の会話を交わすつもりだった宮子の企みはあっけなく潰えた。
そして香奈子が走り去っていくGT-Rを見送るのを横目に、道夫はさっさと家へと入っていった。
----遠い。
お互いにはす向かいの場所に住んでいるというのに、道夫との距離が何もかも遠い。気づきたくなかった事実に無理矢理目を向けさせられた気分になった香奈子は、今日の自分の行動を心から後悔していた。
翌日の昼休み、香奈子は思いきって教室で道夫に声をかけた。
「ねえ。」
道夫はいつも通り、菓子パンを一つ平らげると、机にうつぶせになって昼寝を決め込んでいた。
「昨日のことだけど。」
「何。」
うつぶせのまま道夫は答えた。
「いつから、あの道場通ってたの?」
道夫は答えない。
「なんか、びっくりした。みっちゃん、凄く強かったから。」
道夫は応えない。
「今度さ、あたしにも教えてよ。部活終わった後、剣道場…」
「教える気があったらとっくに教えてる。」
道夫は香奈子の言葉をぴしゃりと断ち切り、のそのそと立ち上がって教室から出て行った。とりつく島もないとはまさにこのことだった。
どうしてこうなってしまったんだろう?
女子の間での道夫に対する印象は両極端だった。非常に悪いか、非常に良いかのどちらかだ。ただしこれには共通点があった。道夫に接触しようとした(そして先ほどの香奈子のように拒絶された)者は前者で、接触した事のない者は後者である。当然だが、前者の方が多い。
香奈子自身、道夫に対して特別な好意を持っているというわけではない。ただ、無条件に打ち解けあえると思っていた相手が、何故これほどまでに自分を避けようとするのか。いくら考えても思いつかない焦りと苛立ちが、逆に道夫への執着を顕在化させていた。
そして放課後、彼が家路につくのを確かめた後、香奈子は再び神社裏の道場へと足を運んだ。
「あら、香奈子ちゃん。」
稽古を終えて道場から出てきた宮子。香奈子は道場の入り口に立っていた。
「昨日は、お世話になりました。」
「いえいえ、いいのよ。また遊びに来てくれるなんて嬉しいな。」
宮子は満面の笑みで香奈子を歓迎したが、
「ん、どうしたの?」
「宮子さん、お話、しませんか。」