彼女の不安
桜井香奈子は緊張していた。
別に不審なことをしているわけではない。放課後すぐに姿を消す幼馴染が夜遅くに帰宅するまでの間、どこで何をしているのかを確かめるため、彼の後を尾行し、同じ電車の隣の車両に乗り込んだだけである。
−−−−家とは逆方向の電車…。
香奈子と彼の家ははす向かいの位置関係にあり、二階にある彼女の自室の窓から彼が帰宅するのが見えるのは、いつも決まって夜10時頃を回っていた。
5つ先の駅で彼は降り、香奈子もこそこそと道夫を追った。そこが住宅街である事は香奈子にとって幸運だった。見渡しの良い田畑に囲まれた場所では尾行のしようもなかったからだ。
−−−−ここは、剣道場？
道夫は木立に囲まれた神社の裏にある、古ぼけた、しかしかなり大きな木造平屋建ての道場らしき建物へと姿を消した。中からは幾人もの野太いかけ声がけたたましく鳴り響いてくる。
−−−−剣道するなら、うちの部に入ればいいのに…。
香奈子は女子剣道部の主将であり、中学時代から県大会上位入賞の常連である。男子剣道部も一応は存在するが、こちらは部員数名で実力も同好会レベルのため、実質的に女子剣道部の付属品のように見なされていた。
−−−−うっ、ね、寝てた！？
香奈子は道場の石段に座り込んだまま眠り込んでいた。空を見上げると夕焼けの朱色も薄れかけ、夜の帳が下りようとしていた。
−−−−あいつがいつも帰ってくる時間を考えると、そろそろ終わるはずなんだけど…。
「あら？」
不意に声をかけられた。濃紺のスーツをきっちりと着こなした、いかにも仕事が出来そうな若い女性がいつの間にか香奈子の目の前に立っていた。
「えっ、あ、あの、えーっと…。」
「うちの道場に何かご用かしら？」
隠れているつもりだった香奈子は慌てふためいたが、女性は香奈子の狼狽ぶりを意に介さず優しく問いかけた。
「そ、その、筒井道夫って人、ここに居るのかな、って…。」
根が嘘をつけない香奈子にとっては、精一杯の回答だった。
制服のデザインやエンブレムから目の前の少女が道夫と同じ高校の生徒である事を見抜いた女性は、事情を彼女なりに察してくすりと笑って答えた。
「ええ、筒井君なら道場で稽古中だと思うわ。あなたも彼と他流試合をしに来たのね？」
「え、他流…え？」
「もうすぐ始まるから、案内しよっか？」
問いかける口調ではあるが、女性は香奈子の腕を半ば強引に持ち上げ、そのまま道場へと引っ張り込んだ。
「橘宮子師範代、入ります。」
「おう、間に合ったか…ん…？」
道場の一番奥で正座している、師範らしき壮年の男性が宮子に声をかけた。そしてすぐに、彼女が引っ張り込んだ香奈子に気づいた。
「他流試合を申し込むそうです。」
宮子は笑顔で答えた。
「しかし今申し込んだら順番は最後になるぞ。時間も遅くなる。」
「終わったら筒井君と一緒に私が車で送ります。」
「ふむ、それならまあ、よかろ。」
道場の奥の壁際に座っていた道夫は、まるで石像のように真正面を向いたまま動かず、香奈子には視線すら送ろうとしなかった。
−−−−うう、どうなるんだろう私。
不安げな表情を浮かべる香奈子に、宮子が耳打ちした。
「木剣とかは私のを貸してあげる。今のうちに着替えましょ？」
香奈子が着替え終わって更衣室から出ると、ちょうど門下生達が稽古を終えてぞろぞろと道場を出て行く所だった。
「あの、これ竹刀じゃなくて木刀…あと、防具とかは無いんですか。」
「ええ、うちはこれがユニフォームだから。怖がらなくても大丈夫よ。筒井君なら優しくしてあげるから。」
そういう事を言いたいわけではないと食い下がる暇も与えられないまま、香奈子は道場入り口傍の壁際に座らされた。
−−−−うう、どうしてこんな事に…。みっちゃんも全然助けてくれないし…。
程なく、玄関から「頼もう！」という声がびりびりと響いた。いや、実際に玄関の引き戸のガラスが響く音が聞こえた。身を乗り出して玄関をのぞくと、まるでプロレスラーか何かと見間違いそうな大男が、玄関に立っていた。
そしていつの間にか「ユニフォーム」に着替えていた宮子がしずしずと大男の前に立って問いかけた。
「御用向きは？」
「橘流剣術の技、この目で拝顔したい。」
「かしこまりました。どうぞお上がりください。」
宮子がぺこりと頭を下げると、男は大股で玄関を上がり込み、縮こまって座っている香奈子を一瞥して怪訝な表情を浮かべつつも隣に座った。
−−−−こ、怖すぎる…！！
「頼もう！」
−−−−ま、また来た！？
どうやらこの「頼もう」で始まる掛け合いはこの道場の一種の作法のようで、その後やってくる数名のいかつい男達はみな同じ台詞を繰り返していた。
「さて…。」
申込者が全員そろったのを見計らって、師範が口火を切った。
「申し込み順に、氏名、流派をお名乗りいただきたい。」
香奈子の隣のプロレスラーが声を張り上げた。
「応っ！当方名は牧田昇平！流派は金剛一刀流は牧田派の免許皆伝を承る身！」
次々と申込者が名乗りを上げる。
「応っ！当方名は新垣純助！流派は我流！」
「応っ！当方名は東光太郎！流派は…」
「応っ！当方名は田村…」
「応っ！当方…」
異様な空気に飲み込まれていた香奈子は、場違いな静寂から自分の番が回ってきた事にようやく気づいた。
「お、おう！当方名は桜井香奈子！流派は…その、え、苑誠高校女子剣道部主将！」
師範の隣に座っていた宮子が笑顔で親指をぐっと立てて見せた。どうやらこれで良かったらしい。
「では牧田殿より一手指南つかまつる。対手は当流、筒井道夫師範代見習いが勤めさせていただく。」
師範がそう宣言すると木剣を携えて道夫は静かに立ち上がり、神棚と道場に一礼してから上がった。
−−−−みっちゃん、師範代だったんだ…。
試合は一瞬で終わった。
宮子が「始め！」と声を発した瞬間、道夫は牧田の懐に一足飛びで入り込み、牧田の木剣をはね飛ばしていた。宙を舞った木剣は天井にぶつかり、そのまま香奈子の頭上に落下した。
−−−−い、痛い…。
「う、ぐ…ま、参った…！！」
「それまでっ！」
他の申込者からはどよめきが起こるが、道場側の人間は涼しげな顔をしたままである。
その後の申込者に対してもほとんど同じ勝ち方で道夫はあっさりと連勝し、ついに香奈子の番となった。
プロレスラー達の見よう見まねで道場に上がり、互いに一礼した後香奈子は木剣を正眼に構えた。
対する道夫も木剣を正眼に構え、屈強そうな男達に向けたものと全く同じ冷徹な視線を香奈子に突き立てていた。
「始めっ！」
宮子が開始を宣言した。すぐに踏み込まれると思った香奈子は体を硬直させたが、道夫は微動だにせず立っているままだった。
−−−−あれ？
香奈子はまるで時間が止まったかのように動かない道夫に拍子抜けした。その数秒後、道夫はぼそっとつぶやいた。
「どうしてここに来たんだよ…」
瞬時に視界から道夫の姿が消え、急に自分の意志とは無関係に香奈子は両手を挙げ万歳の体勢になった。道夫が香奈子の木剣をはね飛ばした衝撃で両手が跳ね上がったのだった。
「痛っ…！」
別に不審なことをしているわけではない。放課後すぐに姿を消す幼馴染が夜遅くに帰宅するまでの間、どこで何をしているのかを確かめるため、彼の後を尾行し、同じ電車の隣の車両に乗り込んだだけである。
−−−−家とは逆方向の電車…。
香奈子と彼の家ははす向かいの位置関係にあり、二階にある彼女の自室の窓から彼が帰宅するのが見えるのは、いつも決まって夜10時頃を回っていた。
5つ先の駅で彼は降り、香奈子もこそこそと道夫を追った。そこが住宅街である事は香奈子にとって幸運だった。見渡しの良い田畑に囲まれた場所では尾行のしようもなかったからだ。
−−−−ここは、剣道場？
道夫は木立に囲まれた神社の裏にある、古ぼけた、しかしかなり大きな木造平屋建ての道場らしき建物へと姿を消した。中からは幾人もの野太いかけ声がけたたましく鳴り響いてくる。
−−−−剣道するなら、うちの部に入ればいいのに…。
香奈子は女子剣道部の主将であり、中学時代から県大会上位入賞の常連である。男子剣道部も一応は存在するが、こちらは部員数名で実力も同好会レベルのため、実質的に女子剣道部の付属品のように見なされていた。
−−−−うっ、ね、寝てた！？
香奈子は道場の石段に座り込んだまま眠り込んでいた。空を見上げると夕焼けの朱色も薄れかけ、夜の帳が下りようとしていた。
−−−−あいつがいつも帰ってくる時間を考えると、そろそろ終わるはずなんだけど…。
「あら？」
不意に声をかけられた。濃紺のスーツをきっちりと着こなした、いかにも仕事が出来そうな若い女性がいつの間にか香奈子の目の前に立っていた。
「えっ、あ、あの、えーっと…。」
「うちの道場に何かご用かしら？」
隠れているつもりだった香奈子は慌てふためいたが、女性は香奈子の狼狽ぶりを意に介さず優しく問いかけた。
「そ、その、筒井道夫って人、ここに居るのかな、って…。」
根が嘘をつけない香奈子にとっては、精一杯の回答だった。
制服のデザインやエンブレムから目の前の少女が道夫と同じ高校の生徒である事を見抜いた女性は、事情を彼女なりに察してくすりと笑って答えた。
「ええ、筒井君なら道場で稽古中だと思うわ。あなたも彼と他流試合をしに来たのね？」
「え、他流…え？」
「もうすぐ始まるから、案内しよっか？」
問いかける口調ではあるが、女性は香奈子の腕を半ば強引に持ち上げ、そのまま道場へと引っ張り込んだ。
「橘宮子師範代、入ります。」
「おう、間に合ったか…ん…？」
道場の一番奥で正座している、師範らしき壮年の男性が宮子に声をかけた。そしてすぐに、彼女が引っ張り込んだ香奈子に気づいた。
「他流試合を申し込むそうです。」
宮子は笑顔で答えた。
「しかし今申し込んだら順番は最後になるぞ。時間も遅くなる。」
「終わったら筒井君と一緒に私が車で送ります。」
「ふむ、それならまあ、よかろ。」
道場の奥の壁際に座っていた道夫は、まるで石像のように真正面を向いたまま動かず、香奈子には視線すら送ろうとしなかった。
−−−−うう、どうなるんだろう私。
不安げな表情を浮かべる香奈子に、宮子が耳打ちした。
「木剣とかは私のを貸してあげる。今のうちに着替えましょ？」
香奈子が着替え終わって更衣室から出ると、ちょうど門下生達が稽古を終えてぞろぞろと道場を出て行く所だった。
「あの、これ竹刀じゃなくて木刀…あと、防具とかは無いんですか。」
「ええ、うちはこれがユニフォームだから。怖がらなくても大丈夫よ。筒井君なら優しくしてあげるから。」
そういう事を言いたいわけではないと食い下がる暇も与えられないまま、香奈子は道場入り口傍の壁際に座らされた。
−−−−うう、どうしてこんな事に…。みっちゃんも全然助けてくれないし…。
程なく、玄関から「頼もう！」という声がびりびりと響いた。いや、実際に玄関の引き戸のガラスが響く音が聞こえた。身を乗り出して玄関をのぞくと、まるでプロレスラーか何かと見間違いそうな大男が、玄関に立っていた。
そしていつの間にか「ユニフォーム」に着替えていた宮子がしずしずと大男の前に立って問いかけた。
「御用向きは？」
「橘流剣術の技、この目で拝顔したい。」
「かしこまりました。どうぞお上がりください。」
宮子がぺこりと頭を下げると、男は大股で玄関を上がり込み、縮こまって座っている香奈子を一瞥して怪訝な表情を浮かべつつも隣に座った。
−−−−こ、怖すぎる…！！
「頼もう！」
−−−−ま、また来た！？
どうやらこの「頼もう」で始まる掛け合いはこの道場の一種の作法のようで、その後やってくる数名のいかつい男達はみな同じ台詞を繰り返していた。
「さて…。」
申込者が全員そろったのを見計らって、師範が口火を切った。
「申し込み順に、氏名、流派をお名乗りいただきたい。」
香奈子の隣のプロレスラーが声を張り上げた。
「応っ！当方名は牧田昇平！流派は金剛一刀流は牧田派の免許皆伝を承る身！」
次々と申込者が名乗りを上げる。
「応っ！当方名は新垣純助！流派は我流！」
「応っ！当方名は東光太郎！流派は…」
「応っ！当方名は田村…」
「応っ！当方…」
異様な空気に飲み込まれていた香奈子は、場違いな静寂から自分の番が回ってきた事にようやく気づいた。
「お、おう！当方名は桜井香奈子！流派は…その、え、苑誠高校女子剣道部主将！」
師範の隣に座っていた宮子が笑顔で親指をぐっと立てて見せた。どうやらこれで良かったらしい。
「では牧田殿より一手指南つかまつる。対手は当流、筒井道夫師範代見習いが勤めさせていただく。」
師範がそう宣言すると木剣を携えて道夫は静かに立ち上がり、神棚と道場に一礼してから上がった。
−−−−みっちゃん、師範代だったんだ…。
試合は一瞬で終わった。
宮子が「始め！」と声を発した瞬間、道夫は牧田の懐に一足飛びで入り込み、牧田の木剣をはね飛ばしていた。宙を舞った木剣は天井にぶつかり、そのまま香奈子の頭上に落下した。
−−−−い、痛い…。
「う、ぐ…ま、参った…！！」
「それまでっ！」
他の申込者からはどよめきが起こるが、道場側の人間は涼しげな顔をしたままである。
その後の申込者に対してもほとんど同じ勝ち方で道夫はあっさりと連勝し、ついに香奈子の番となった。
プロレスラー達の見よう見まねで道場に上がり、互いに一礼した後香奈子は木剣を正眼に構えた。
対する道夫も木剣を正眼に構え、屈強そうな男達に向けたものと全く同じ冷徹な視線を香奈子に突き立てていた。
「始めっ！」
宮子が開始を宣言した。すぐに踏み込まれると思った香奈子は体を硬直させたが、道夫は微動だにせず立っているままだった。
−−−−あれ？
香奈子はまるで時間が止まったかのように動かない道夫に拍子抜けした。その数秒後、道夫はぼそっとつぶやいた。
「どうしてここに来たんだよ…」
瞬時に視界から道夫の姿が消え、急に自分の意志とは無関係に香奈子は両手を挙げ万歳の体勢になった。道夫が香奈子の木剣をはね飛ばした衝撃で両手が跳ね上がったのだった。
「痛っ…！」