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金木犀の手

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 長瀬さんは黙ってしまいましたが、すぐ少し遠慮がちに答えました。
「あるよ」
 大きな音がして私の目の前でなにかが勢いよく砕け散りました。長瀬さんと彼女が寝た?
「何でそんな事したの? 誰でも良かったの?」私は涙声でした。
「何でって付き合ってたからだよ」
「いつよ?」
「君と付き合う前」
「あーー そうなんだー だから今でも好きなんだね」
「好きじゃないよ」
「彼女は今もあなたが好きだよ。大切に思ってるよ」
「・・・」
「どうして別れたの?」
「それほどでもなかったんだ」
「って事はつまり、あなたが彼女を振ったのね?」
「・・・そう」
 私は息苦しくなって電話を切りました。長瀬さんと彼女が付き合っていた。
 その事実は重たくのしかかりました。2人はあの部屋で抱き合ったんでしょうか。今私達がしているような事をして、こそこそ逢い引きしていたのでしょうか。
 彼女のあの白い手が長瀬さんの頰を優しく撫でて抱擁し、彼方此方を愛おし気に触ったのでしょうか。そして、長瀬さんも彼女の全てを抱いたのでしょうか。気がおかしくなりそうでした。この狭い世界では何もあてにはならないのだと悟りました。蜘蛛の糸のように細いなにかもないのです。
 私が落ち着きなく浅い呼吸を繰り返していると、長瀬さんが訊ねてきました。が、出る事ができませんでした。何処からかうっそうとした金木犀の怪しい香りが入り込んでくるようでした。

 それからしばらくした深夜。何故か私の携帯に彼女からの着信がたくさん入っていたのです。正直もう連絡したくないと思っていたのですが、あまりの着信履歴にさすがになにかあったのかと半分心配して半分不審に思ってかけ直すと、慌てた感じの彼女が出ました。
「そっちに長瀬さん行ってない?」
「は? いえ。来てませんけど・・・」
「そう。今日、私達知り合いのライブなんだけど、長瀬さんがまだ来なくて、心配してかけてみたの。ごめんなさいね」
 心配? ごめんなさい? 一体彼女は何がしたいのかわからず、そのまま急いで電話を切りました。受話器の向こうから白い手がしなやかに伸びて、私の言った事が本当か確認する様に動いているような錯覚まで起こしたのです。心が音をたてて折れるような気がしました。私はこの人達にとって何なのだろう? 私はこの人達に囲まれて何をしたいのだろう?
 しかし、弱い私はそれでもズルズルと長瀬さんの都合を受け入れ続けてしまいました。


 秋口に長瀬さんと何処か山の方にあるカフェに2人で行きました。
 上品な感じの白煉瓦の入り口の脇に、大きな金木犀が行儀よく2つ植えてありました。そのカフェのオーナーは女性の方だったので、その方の好みだったんだと思います。
 確か実家の近くの公園にも金木犀はあった筈でしたが、別段花に興味のない私は、それまで特に気にしてみた事もありませんでした。ですが、そのカフェに植えてあった金木犀は大きくて、同じ様に愛らしい小さな花が寄り添って集まって出来てはいたのですが、なにか人を圧倒するような気配がして、思わず立ち止まって眺めてしまったのです。甘い古風な香りが、いかにも純情そうにすり寄って来て鼻をつきます。派手過ぎない色で控えめと思わせて、そのくせしっかりと甘さを残していく。まるで、男戦略の上手な女のようでした。
 それは今の私に足りない事だと何処かで感じているから、そう思ったのかはわかりません。ですが、何故かその純情さと甘さにイラッとした感情が沸き上がったのは確かでした。甘ったるい。。そんな事をぼんやり考えていましたら、俄かに白い綺麗な見覚えのある手が二本すらっと出ていたのです。その手は柔らかに広げた指を上に向けて立っていました。いかにもさっきからそこにあったと言うような顔をして。私は驚き恐怖しました。 あれは?! その時、先に店に入った彼が出てきて、怪訝な顔をしたのです。
「何してんの? 入らないで、そこでずっと突っ立てるつもり?」
 私は首を横に振って、慌てて店に入りました。通り過ぎざまに見ると、何処にいったのかもう手は見えなくなっていました。一体何だったのでしょう?
 ですが、食事をしている最中にも、その後セックスをしている最中にも、不意に長瀬さんの肩からあの白い手が伸び出して彼の頰を優しく撫でながら守ってでもいるように見えて仕方ありませんでした。私は何を考えているのか。そんな事ある筈もないのに。
 家に帰っても、どうにも金木犀の香りが何処かに漂っているような気がしたのです。


「最近全然連絡がないけど、元気にしてますか?」
 彼女からメールがきました。私は身を強張らせました。何と返事をしたらいいのかわからなかったのです。彼女は長瀬さんの元彼女。しかもまだ彼の事を好きなのです。それも嫉妬で取り乱してしまうくらいに。そんな事に気付きもしないで私は一生懸命に頼って何でも話してしまった。もうよした方がいい。
「大丈夫です。ありがとう」
「今、近くのお店で夕ご飯を食べているんだけど、良かったら出て来ない?」
「いえ。今日は遠慮しておきます」
「どうしたの? なにかあったの?」
「大丈夫です」
「あなたは私に似ているわ。だから色々一人で抱え込んでしまいそうで、心配なの。良かったら、いつでも話聞くから」
 私は散々悩みましたが、聞いてみる事にしました。彼女の核心を。そして恐らく一分も違わないであろう彼女の気持ちを。
「長瀬さんの事を今でもまだ、とても好きなんですね?」
 沈黙がありました。
「そうよ。いつから知っていたの? だったら私もあなたを傷付けていた事になるわね。ごめんなさい」
 彼女の口にするごめんなさいは、長瀬さんの口にするごめんと似ていると思いました。謝った事に対して改善する意味ではなくて、その現状を維持していく事に対して、これからも相手を傷付けると予告している意味。悪いと思ってはいるけれど、こんな状況の時に言うべき言葉だから言っているだけで、気持ちがない言い方。それをその言葉の一般的な取り方で受け取れない私ももう既におかしくなっているのだと思います。考え方まで浸食されている。
作品名:金木犀の手 作家名:ぬゑ