我侭姫と下僕の騎士
「……お館様の悪い癖を思いだせ」
自分達の主人であるクレアの父親を疑えとはどういう事か。
疑問は残るが、クロードは兄に忠実である。釈然としないながらも、クロードは兄に言われるまま『お館様の悪い癖』について思いを馳せた。
御歳六十二になるカルバンには、公式に五人の妻と、十五人の子どもがいる。これが非公式の愛人・子どもとなれば、カルバン本人でさえも把握していないだろう。
つまりは、非常に色を好むという事だ。
とはいえ――
「姫様はお館様の血を引く実の娘です。さすがのお館様も……」
「おまえが赤ん坊の頃。お館様はご自分の息子の婚約者だった方を妻に迎えている」
十年以上昔の事件であり、婚約者を父親に奪われた息子は以来城に寄り付かない。そのため歳若い使用人はこの事を知らないし、禁句にも近く、勤めの長い使用人は口を閉ざす。
結果として産まれた子どもは、自分が母に疎まれる理由を知らず、父であったかもしれない兄の顔も知らない。
何も知らず、祖父であったかもしれない男を父と慕うことで子どもが幸せであるのなら、イグニスとしても文句はない。しかし、その父に我が子として弟妹を孕まされては、たまったものではない。
「いいな、片時も姫様から目を離すな」
「……はい」
異母兄という証拠を目の前にしながら、クロードは父と母の愛情を疑わない。真実、両親が愛し合ったから自分は生を受け、妹まで生まれたのだ。
両親の影響から一夫一妻という極普通の価値観を身に付けたクロードには、カルバンのような一夫多妻を実践している人間の思考は理解できない。
父親が娘に欲望を覚えることなど、本当にあるのだろうか。
兄の思い過ごしではないか。
そうは思うが、他ならぬ兄の命令だ。無駄になる事を願いながらも、クロードは心に留め置く。
納得できないながらも納得したとわかるクロードに、イグニスは鏡台へと視線を移す。
そこではカルバンに渡された花の世話をフィリーに任せたクレアが、物珍しそうに鏡の中の自分を覗き込んでいた。
イグニスはクレアを驚かせないよう静かに近づき、そっと飾り櫛を髪から抜き取る。
「あ!? 何するの、せっかくフィリーが……」
「たまには結い上げるのもいいかもしれませんが、やはり姫様にはおろし髪がお似合いですよ」
イグニスはふわりと広がって落ちたクレアの髪を櫛で梳き、一度編みこんだことで癖のついた髪を慣らす。すぐにいつものように真っ直ぐに伸びた髪を、イグニスは器用に編み込んだ。
「だって、さっきは……」
確かに似合うと言ったのに。
「さっきのはただの感想です。確かに結い髪もお似合いですが、姫様でしたらどんな髪型でも似合います。それに、私はおろし髪の方が好きです」
いつになくきっぱりと言い切られ、クレアは首を捻りながらもイグニスの言葉を受け入れる。
似合うと言われるよりも、好きと言われる方が嬉しかった。
「じゃあ、フィリー。またお願い。……今度はおろし髪で」
ほんの閃きのように掻き立てられた警戒心から、イグニスはカルバンを見張り、クロードはクレアの側を片時も離れなくなった。
ところが、当のカルバンは意外にも大人しく、すでに数日が何事もなく過ぎている。
髪を結い上げたクレアを見た後にカルバンが取った行動といえば、宣言どおり連日領地中の細工師を離宮へと連れてきて、クレアのための装飾品をいくつも注文して満足していたぐらいだ。
父と娘以上の過度の接触はない。
カルバンが離宮を訪れるのはこれまで同様昼間だけ。それも、仕事の区切りがクレアのお茶の時間と重なった日だけだ。
本当に、これまでと何一つ変わらない。
クレアと三十分ほどお茶の時間を楽しみ、第五夫人の機嫌を窺ってから城へと戻る日々。
さすがに、思い過ごしだったか。
さしものカルバンも、六十歳を過ぎて実の娘相手に間違いは犯さないか。
――そうイグニスが思いはじめたのは、ほんの一時でも町へと降りたい用事があったからか。
(昼間……ほんの一時間ぐらいなら、クロードだけに任せても大丈夫、か……?)
数日後に迫ったクレアの誕生日。
その贈り物として、イグニスは知人に紹介してもらった細工師に耳飾りを作らせていた。それが本日の午後に出来上がる。誕生日当日より先に受け取りに行きたいのだが、カルバンを見張り、離宮から離れられない今のままでは、店まで取りに行くこともできない。
(一時間、……一時間だけだ。出来るだけ早く帰ってくる……)
騎士はクロード一人になったとしても、クレアの周りにはまだ侍女と乳母がいる。
いかにカルバンとて、そう簡単におかしな真似はできないはずだ。
悩みに悩んだ末、イグニスは町へ出るために、主人へと外出許可を求めた。
門番が執務室へと持ってきた知らせに、カルバンは一人ほくそ笑む。
この日のために、珍しく兵舎に酒などを差し入れて新入りの兵士を買収しておいた。
日々の公務に終われ、自分では情報を集められない城主とは違い、自らの足でカルバンを見張りに来ることができるイグニスには自分の動向が筒抜けになっている。それが面白くない、と新入りの兵士を取り込んでみたのだが――予想以上の収穫があった。
曰く、兄騎士の方は色街の常連である。
おかげで愛娘に手を出していない事も確認がとれた。
清廉潔白が服を着て歩いているかのような兄騎士の醜聞に、カルバンはほんの少し――それこそ、有るか無いかわからないほど微かに――好感を持った。
(所詮は男よ……)
一日中カルバンに張り付いていては、溜まるものが抜けない。それも、カルバンを見張っている以外の時間は、極上の美少女である姫君の側に控えているのだ。溜まる一方では、男としては辛い。
色街に通うような性の快楽を知っている男なら、なおのこと溜まったものを抜きたくなるはずだ。
一番手軽に、それも後腐れなく抜ける場所で。
(さすがに町へ出たか。さて、予定通り一時間で戻ってこられるかな……?)
湯浴みのため、高く結い上げたクレアの髪から、後れ毛が零れ落ちる。
フィリーの手により慎重にコルセットの紐を緩められながら、クレアはホッと息をもらした。湯浴みをする際に、きついコルセットを外されるこの瞬間が、一日で一番安心する時間だった。
「……なに?」
支度部屋の外から聞こえた物音に、クレアは一瞬だけ身を竦ませる。
部屋の外にはクロードが居たはずだ。姫付きの騎士とはいえ、さすがに男性であるクロードは湯殿の支度部屋までは入って来られない。
「……様子を見てきます」
物音に続いたクロードの怒声に、脱がしたばかりのドレスを抱いたフィリーが、衝立の向こうへと姿を消した。
ドレスは置いていけばいいのに、と言いかけたが、クレアは口を閉ざす。クロードの怒声から、何かただ事ではないことが起こっているのはわかった。
一人取り残された支度部屋でクレアが耳を澄ませると、怒声の中にフィリーの声が混ざりはじめた。
(……本当に、何が起こっているの?)
確かめには行きたいが、下着姿で外へ出ることも出来ない。騎士が部屋の外で奮闘しているのなら、姫である自分は大人しく守られているのが仕事だ。