我侭姫と下僕の騎士
姫君の無垢な青い瞳に見上げられ、イグニスはやや言い難そうに口を開いた。
「かの公爵は確か……今年で御歳四十五になられたはずです」
「……一番上のお姉様より、少し年上なのね。年齢的に、丁度釣り合うのかしら?」
兄騎士の口からもれた数字に、クレアはゆっくりと瞬く。さすがに少し驚いたが、長姉が四十三歳という事もあり、クレアとしては受け入れられない数字ではなかった。
「この場合、第三夫人と同じ歳って言うんですよ。ついでに、次の誕生日で十六歳になられる姫様とは、おもいきり歳が釣り合いません」
先ほどは『我侭姫の縁談』と鼻で笑ったくせに、今は相手との歳が離れすぎているとクロードは憤慨する。同じ考えらしいフィリーが感じ入ったように何度も力強く頷き、クロードの前に自分で取り上げたばかりのティーカップを置く。それを憤りのまま一息にあおったクロードは、力いっぱい咽た。
「まだ、何か気になる事があるの?」
咽たクロードの背を擦るフィリーを横目に、クレアはイグニスを上目使いに見つめる。
「……なぜ、そう思うのですか?」
「だって、イグニスはまだ『おめでとう』って言わないもの」
「……」
ぼんやりと父親の言う事を聞いていたクレアではあったが、まったく何も考えていなかったわけではなかった。隠し切れなかったイグニスの逡巡に気づき、その理由を問うぐらいの知恵は持っている。
「モルガナ公爵には、すでに正妻がいたはずです。……愛人も、何人か囲っていると、聞き及んでおります」
降って湧いた縁談のオチに、当人であるクレアが憤慨するよりも早く、隣から非難の二重奏があがった。
「反対ですわっ!」
姫付きの侍女として、しっかりと躾けられた作法も忘れてフィリーは卓を叩いた。
「姫様、先程の言葉、撤回させていただいます。反対です! 私、この縁談には断固反対いたしますわっ!」
「百歩譲って、死別した正妻の後妻に納まるならともかく、初婚で愛人に送られるってのは、ちょっと……」
日頃から兄を巡って何かと対立することの多いクレアではあるが、だからといって長年仕えた姫君に愛着がないわけではない。
何不自由ない生活が保証されるという意味では良い縁談相手であったが、それ以外が最悪だった。
二人の鬼気迫る勢いに気が抜けて、クレアは苦笑を浮かべる。そんな姫君に気づき、フィリーは眦を吊り上げて詰め寄った。
「何をのん気に笑っているんですかっ!」
「そうですよ。幸い、お館様は姫様には蜂蜜よりも甘いですから、今すぐ追いかけて、得意の我侭で『やっぱりお嫁には行きたくないです』とか『もう少しお父様のお側にいたいな』とかなんとか言い包めてきなさい」
興奮のあまり主従が反転したクロードの言葉遣いに、チラリとイグニスが視線を向ける。目だけで兄に窘られたクロードは、すぐに恥じ入って居住まいを正した。
騎士二人のやり取りを眺め、クレアは笑う。
「……貴族の娘が政略結婚に使われるなんて、珍しい事じゃないでしょう」
自分に来た縁談話だと言うのに、意外に冷静に受け止めた主人に、フィリーもようやく落ち着きを取り戻す。
「家格とか、難しいことは良く解らないけど。クロードが言うように、お父様はわたしにすごく甘いから……間違った相手は選んでこないはずよ」
母子ともに、偏愛するあまりに離宮に閉じ込められてはいるが。カルバンの髭を引っ張っても、剥げ頭を隠す帽子を取り上げても許されるのはクレアだけだ。他の姉妹や愛人が同じ事をすれば、即刻領地から叩き出されるだろう。クレアが生まれる前の事なので経緯は知らないが、実際に次兄がカルバンの怒りを買い、里帰りを許されない身となっている。毎年欠かすことなくクレアに誕生日の贈り物をくれる次兄ではあるが、実は一度も会ったことがない。
「……確かに、お館様は姉妹の中でも一番高貴な方を見つけてきましたね」
カルバンの娘はクレアを入れて八人いるが、みな父親の役に立つ縁組をされた。
自分の父親に全幅の信頼を寄せ、縁談相手の年齢と性癖を聞いても「嫌だ」と言い出す様子のない姫君に、イグニスはホッと息を吐く。
――内心は、とても複雑だった。
「兄上? まだ何か……?」
渋面を浮かべたままのイグニスに、クロードが不安気に顔を曇らせる。
「いや、姫様の我侭とも、もう少しの付き合いかと思うと……さすがに少し寂しいかな、と」
内心の葛藤などおくびにも出さず、イグニスは苦笑いを浮かべた。
「ああ、確かに」
「酷かったですものね……」
イグニスの言葉を受け、しみじみと同調した二人の幼馴染に、クレアは子どものような仕草で拗ねる。
「何言っているの。あなたたちも一緒に行くのでしょ」
頬を膨らませて怒るクレアに、三人は顔を見合わせ、ややあってから気がついた。
クレアが自分の縁談について、特に反対をしなかった本当の理由に。
貴族の娘として育てられたクレアには、当然家のために嫁ぐという覚悟がある。恋愛になど興味を持たないよう、家のためという大儀に疑問を抱かぬよう、慎重に育てられた。
クレアにとっての自分は家のために使われる道具であり、結婚とは自分の所有者が生家の父親から婚家の夫に替わるだけの事だ。
それは強ち間違いではない。
ただ、肝心なことが、クレアの意識から抜け落ちていた。
「あの、姫様。普通、家格が上の方に嫁ぐ場合、生家からの使用人は連れて行けませんわ」
連れて行くとしても、ごく少数。それも、婚家の家格に見合う高い身分の者だけだ。乳母の娘であるフィリーはこれに含まれない。一応フィリーも貴族の娘ではあるが、クレアよりも格下だ。とてもではないが、公爵家に嫁ぐ花嫁の侍女として付いていける身分ではない。
フィリーが怖々と姫君の顔色を窺うと、クレアは考えてもいなかった事を指摘されたのか、これ以上は開かないのではないかというほど目を丸くしていた。
「どうして?」
「失礼にあたるんです。婚家の財力を軽んじるといいますか……」
内心の戸惑いがありありと読み取れるクレアの青い瞳に、フィリーは忙しく思考する。うっかり説明を誤まれば、自他共に認める我侭姫に火がつきかねない。
「おまえのトコじゃ、使用人も用意できないのか? て言っているようなものなんですよ」
少々言い方は悪い気もするが、解りやすく噛み砕いたクロードの説明に、フィリーはコクコクと頷く。それを見て、クレアは見開いていた瞳を物憂げに伏せた。
「……それじゃあ、フィリーは連れて行けないのね?」
ほんの少しだけ心細そうな響きを帯びたクレアの言葉に、フィリーは口を閉ざす。
ダメだと言っておくべきなのだが、つい元気付けたくなってしまった。
我侭姫という不名誉な異名は、クレア本人だけの責任ではない。甘え上手でもある姫君の要求に、周りがつい応えてしまい、結果として呼ばれるようになってしまった異名だ。
甘え上手なクレアに抵抗できる人間は、恐ろしく少ない。
そして、フィリーはその希少な人間に含まれなかった。
「……姫様次第では、私は後から呼び寄せられるかもしれませんわ」