我侭姫と下僕の騎士
引っ張られるままに衝立の陰へと連れ込まれ、ようやく開放された次の瞬間には、両手に見たこともないほど粗末な服を一揃えのせられた。
「まずは着替えからね。時間がないから、パッパと着替えましょう」
いった何の話だろう、とクレアが理解できずにいると、セシリアは何事かを勘違いしたらしい。クレアの夜着に手をかけると、そのまま着替えを手伝いはじめた。
「ホントは脱がせるのはイグニスがやりたいんだろうけどね。今は時間がないから、アタシがお姫様を脱がせちゃう」
カラカラと笑いながら手際よく粗末な服を着せるセシリアに、クレアは戸惑いながらも従う。
黙って着付けられているうちに気がついたのだが、どうやらこの粗末な服ではコルセットは着けないらしい。それとも忘れているのだろうか、とクレアはセシリアを見つめる。
彼女の服は町娘とも、姫君とも違う物を身に着けていた。商売柄、扇情的な意匠が施されたドレスを着ており、露出も多い。胸などドレスから零れ落ちるのではないかと思えるほど布地が少なく、大きくスリットの入ったスカートからは、時折白い太ももが覗いていた。
種類としてはドレスと呼べるが、普段クレアが身に着けているドレスとは真逆に位置するドレスだ。
しかし、共通点もある。異様にくびれた腰だ。このくびれはコルセットに頼らなければ決して作れない。
という事は、セシリアはコルセットを身につけており、着ける事を忘れるはずなどないのだ。
「あの、コルセットは……?」
「あんな時間かかるもの着けたいの? 変わってるわね。普通の家の娘は、あんなの着けてないよ。落ちつけるトコに逃げるまで、姫様は普通の娘のフリしなきゃいけないから、着けたくても我慢ね」
苦笑いを浮かべて答えたセシリアに、クレアは衝撃を受けた。
毎日のように苦しくて窮屈な思いをさせてくれたコルセットは、普通の町娘はつけなくても良いものだったらしい。
貴族の姫と町娘。これではどちらに産まれる方が幸せなのか、クレアにはわからなくなってしまった。
「これが、わたし……?」
セシリアの手により粗末な服へと着替えさせられて、クレアは姿見の前に立つ。
豪華な夜着を脱いだだけでも、だいぶ印象が変わった。町娘の間で流行っているように髪を結い、コルセットを外し、地に裾のつかないスカートをはいた自分は、とても貴族の姫には見えない。
「やっぱ、元がいいから少し浮くね。でも、その耳飾りは似合ってる」
一分一秒を争う逃走劇のはじまりに、これだけはと持ち出した耳飾りを誉められて、クレアははにかむ。イグニスに贈られた物を誉められるのは悪い気がしない。
「イグニスがくれたの」
「知ってる。それ注文しに行った時、アタシも一緒にいたからね」
意外な暴露話に、クレアは目を丸くする。その表情を見て、セシリアは笑った。
「アタシの知り合いの細工師を紹介したの。その時、あの馬鹿なんて言ったと思う? 黒髪の女性に似合う耳飾りを作ってくれ。イメージとしてはコレと真逆、って」
コレと強調しながら、セシリアは自分を指差した。
「イグニスに、黒髪の想い人がいるってのは、ここじゃ有名は噂よ。なんていったって、買う娼婦はみんな黒髪で小柄。そして、それしかないのか!? ってぐらいの後背位(バック)好き」
「……バック?」
イグニスの好きな物、と理解してクレアは心を惹かれる。
バックと言えば『後ろ』のことだ。
いったいイグニスは、後ろの何を好むのだろうか。本心から理解できずにいると、クレアの耳にセシリアが『後ろ』ではなく『後ろから』だと囁いた。
訂正された言葉により、その隠された意味を悟ったクレアはうろたえる。
最初から後背位(こうはいい)と言われれば、理解できた。後背位(バック)などと、独自の言葉を使われたから、わからなかっただけだ。後背位なら、乳母の持ってきた教科書にも載っていた。夫婦が睦みあう時の、体位の一つにそんな名前があったはずだ。
クレアは『自分の恋人は後ろからが好きなのだ』と当人の与り知らぬ場所で学習し、ひっそりと記憶に刻み込んだ。
「……想われているね、お姫様」
少し眩しそうに目を細め、セシリアはクレアを見つめる。
「身分違いと解っているくせに、ひたすらにお姫様を想うイグニスは可愛かった。アタシだけじゃない。イグニスを可愛いって気にかけてる娼婦は、他にも沢山いる。だから――」
そっと手をとり、セシリアはクレアの青い瞳を覗き込む。自分とは種類の違いすぎる純粋な瞳が羨ましかった。
「アンタは絶対幸せになれる。幸せにならなきゃダメなんだ」
客と娼婦という垣根を越えて、イグニスを愛する娼婦達のぶんまで。
セシリアのぶんまで。
「ありがとう」
言外に込められたセシリアの複雑な心情までは理解できなかったが、クレアは「幸せになれる」と言われた言葉を受け取る。もとより、イグニスと一緒にいれば、不幸になる方が難しいと、クレアは知っていた。
「セシリア、支払いは――」
いつのまに着替えたのか、自身も粗末な服を纏ったイグニスが扉を開けて部屋へと戻ってきた。
イグニスは姿見の前に立つクレアに気がつくと、数回瞬く。
「……えっと、変?」
「はい」
恥じらいながら聞くクレアに、イグニスは真顔でそう答えた。
素直すぎるイグニスの返答に、クレアは眉を怒らせる。それに気がついたイグニスは言葉が足りなかったのだ、と慌てた。
「変というか、変ではないというか……」
服は普通の町娘が着る物だが、中身が高貴を纏う姫君であるため、違和感は拭い去れない。
簡単には治まりそうにないクレアの機嫌に、イグニスはセシリアへと話を戻した。
「そ、そうだ! セシリア、支払いは姫の宝石と夜着でいいか?」
「馬鹿。それじゃ貰いすぎだ。換金してやるから、ちゃんと釣りは持ってきな。後、着古しの服も付けといたよ」
クレアが夜着としてきていた服には上等の絹が使われており、十分換金の価値がある。クレアが耳飾りを持ち出すついでにイグニスが持ち出した、カルバンの指示により最近作られたばかりの装飾品も、換金してしまえば数ヶ月は遊んで暮らせる値になるはずだ。質の良い馬と携帯食料、旅の必需品を一揃え用意しても、当面の旅費は残る。
「世話になる」
そう結ばれた会話に、クレアは自分の耳に飾られた耳飾りへと手を伸ばす。自分の持ってきた装飾品となれば、これも支払いのうちだ。惜しくはあるが、イグニスとの生活には変えられない。
「それはお姫様が持っていきな」
「え? でも……」
耳飾りを外しかけたクレアの手を捕まえて、セシリアは笑う。
「それはアタシからの贈り物でもあるんだから、換金なんかしたら怒るよ?」
「あ、ありがとう」
正直、これだけは持って行きたいと思っていたクレアには、セシリアの言葉は嬉しかった。
「ずっと話に聞いてたお姫様が、アンタでよかった。思ってたよりずっと可愛い」
名残を惜しむように再びクレアを抱きしめて、セシリアは呟く。柔らかい女体に抱きしめながら、クレアは不思議な気分になった。母や姉とは、本来セシリアのような存在なのではないか、と。
そのどちらも、今夜全て捨て去るので、確認はできないが。