我侭姫と下僕の騎士
意地になってしまったクレアに、イグニスは作戦を変える。頭ごなしに説得をしても我が強いクレアは貝のように耳を塞いでしまうだけだが、幸いなことにとても素直な性質も持っている。我侭ではあるが、言ってわからない姫君ではない。
「その靴は町を歩き回るようには作られていませんからね」
足元を指差され、クレアは示されるままに見下ろす。そこには自分の小さな足を包み込む、柔らかい布製の靴があった。
「整備された城の庭と、離宮の中でお暮らしになる姫様のための靴です。そのあたりの町娘が、舗装もされていない道を何キロも歩くための靴とは、素材からして違います」
言われて改めて自分の靴を眺め、車窓から見える町娘の靴と見比べる。クレアの靴は絹とレースがふんだんにあしらわれたお洒落な靴であったが、町娘の足にある靴は皮製だろうか。色とりどりのクレアの靴とは違い、濃淡の差はあるが、多くの物は茶色だった。
「お館様の庇護の下、何不自由なく育てられ、食事の用意はおろか、着替えすら他人の手を借りなければできないお姫様に、城の外で暮らすことはできません」
「してみなくちゃ、わからないわ」
どうやら自分の要求を聞く気はないらしいイグニスに、クレアとしては面白くない。チクチクと説教をはじめたイグニスに、クレアはふてくされて顔を車窓へと向けた。
「わかります。それに、お忘れですか? 『貴族の娘が政略結婚に使われるなど、珍しいことではない』と、ご自分でおっしゃっていたではありませんか」
当人であるクレアが縁談を受け入れるのだから、縁談相手の素行を承知でイグニスも想い人に来た縁談を受け入れた。
それを今更、クレア本人に覆されては、イグニスとしても困ってしまう。
「イグニスが居れば、平気よ」
「は?」
「イグニスが居れば、平気よ。イグニス、何でも出来るじゃない」
小さなクレアが喜んでくれるから、と少年期のイグニスは様々なことを学んだ。外国の童話集を読むためには、その国の言葉を。珍しい楽器を手に入れたとカルバンが持ってくれば、それを奏でるための技術を。年頃となった今はさすがに控えているが、クレアの髪をフィリーよりも複雑かつ綺麗に結い上げることもイグニスには可能だ。
「さすがに……とんでもない我侭ですね」
「自覚はあるわ」
過去の蛮行を振り返り、反省した上で、さらに我侭を重ねる。我ながら学ばないものだと恥じらい、クレアの頬には優しい朱が差し込んだ。
「……わかりました」
「え? それじゃあ……」
イグニスの言葉に喜び、クレアは僅かに腰を浮かせる。けれど、すぐに続けられた言葉に、それが了承の言葉ではなかったのだ、と肩を落として座りなおした。
「では、私の側からお話しましょう」
重たげに瞼を下ろしたイグニスに、クレアは気がついた。
そういえば、自分の視点でばかり物を言っていた。イグニスが居れば、クレアは何の不自由もないが、イグニスにしてみれば普段フィリーやカーラが行っている仕事の全てを押し付けられるような物だ。
「嫁ぎ先の決まった姫君を、その騎士が攫って逃げた場合……騎士の家族は、どうなるとお思いですか?」
「あ……」
イグニスの側で考えていなかった。そう気がついた事柄さえ、間違いだった。イグニスの側というのは、イグニス個人の負担ではなく、その背後の――家族の事だったのだ。
ようやく事の重大さに気がつき、口を噤んだクレアに、イグニスは安堵のため息をもらす。
「父と弟は解雇。親類縁者にいたるまで、家の人間は断罪されるでしょう。異母妹はお館様のご機嫌取りに献上されるかもしれませんね。年頃ですし。カーラ殿とフィリーは職を追われて、たぶんこちらも親類縁者すべての御家断絶。フィリーも捨てられる前にお館様に差し出されるかもしれません。なかなかの美少女ですから」
常にクレアの傍らにいるため、霞みがちではあるが。金髪碧眼のフィリーは器量良しで、兵士・下男を問わずに人気は高い。母親の躾けの賜物か、寄り付く男を見事な手さばきであしらうため、傷も付いていない。
「……少し、意地悪が過ぎました」
口を閉ざしたまま震えるクレアに、イグニスは目を逸らす。
自分が逃げだせば、自分に近しい人間がその責を問われ、累が及ぶ。
そんな事、考えたこともなかった。
気遣わしげに頬へと伸ばされたイグニスの手を、クレアは小さく首を振って拒む。
考えの足りなかった自分を恥じ、悔やんだ。
誠意を持って自分を窘めてくれたイグニスに、言葉には出さずに感謝する。
そして、物語のようには、騎士は姫を攫ってくれないのだと涙した。
クロードに伴われて離宮の自室に戻ると、乳母が腰に手を当てて待ち構えていた。
帰還したらすぐにでも説教。それが終わるまで夕食はお預け。むしろ、今晩の夕食は中止に、と意気込んでいたカーラは、戻ったクレアの顔を見て、すべての計画を取りやめた。
優しく微笑み、ただ一言「温かいココアをご用意いたしますね」とだけ口にして退室したカーラを不思議に思うが、それについてあれこれ考えるのも億劫だった。
無言で椅子に座り、フィリーにされるままに着替える。
「……姫様、町はいかがでしたか?」
沈黙に耐えかねて、フィリーが恐るおそる口を開く。
てっきり、カーラにたっぷり怒られた後、一応の反省をし、すぐにそれを忘れて町での体験を武勇伝のように語ってくれると思っていたのだが。戻ってきたクレアの様子は、酷く憔悴しており、カーラもお説教を取りやめたほどだ。
「……疲れたわ」
そっけなく返された言葉に、フィリーは鼻白む。ここで引き下がっては、しばらくは落ち込んだままのクレアと対峙せねばならない。なんとも重たい空気を払拭できないものか、とフィリーは食い下がった。
「えっと……」
何か他に話題はないものだろうか。
懸命に言葉を探すフィリーを、クレアは無情にも切り捨てた。
「今日はもう休みたいの。お説教なら明日聞くって、カーラに伝えて」
「……はい」
それっきり口を閉ざしたクレアに、フィリーは諦める。黙々と夜着に着替えさせて、リボンの解かれたクレアの髪を梳り、これ以上の仕事がないことを確認してから退室した。
誰も居なくなった寝室で、クレアはのろのろと寝台に上がる。寝室の外には、今日はクロードが控えているはずだ。イグニスは町へと馬車を返しに行った。
(馬鹿なこと、言わなきゃ良かった……)
自分を連れて逃げろなどと。
考えてみれば、これまで自分はイグニスに対して数々の我侭を言って振り回してきた。今更一人の女性として、彼に愛されるはずもない。クレアとて、自分のような我侭な娘の相手など嫌だ。
イグニスにとっての自分には、家族を捨てるほどの価値もない。
全てを捨てたところで、イグニスには我侭で手の付けられないクレアしか残らないのだ。
主家の姫ではないクレアには、価値がないどころか、イグニスにはお荷物でしかない。
(馬鹿なこと、言った。もう、たぶん……)
イグニスはどんなにクレアが希おうと、嫁ぎ先までは付いてきてくれない。
自分がクレアの側に居れば、いつかまた同じ事を言い出すと解っているはずだ。