我侭姫と下僕の騎士
必死に自分の感情を表す言葉を探すが、なかなか見つからない。元より、何不自由なく箱庭のような離宮で育てられたクレアは、他者と比べれば恐ろしく不平不満を感じたことがない。突然自分の中に芽吹いた感情が、これまで感じたものでなかった場合、その名前がわからずとも無理はなかった。
「すごく、嫌だったの……」
散々悩んだ末に見つけた一番単純な感情を口に出し、クレアは戸惑う。
自分は、いったい何が嫌だったのだろう、と。
「……じゃあ、何がそんなに嫌だったのか、思いだしてみましょう」
「思いだしたくもないわ」
「でも、それじゃあ姫様が何に対して怒っているのかわかりません。僕も兄上も対処ができなくて、困ります」
もっともな言い分ではあったが、クレアは躊躇う。もやもやとした陰鬱な気分は、今も胸の中にある。それが一瞬とはいえ弾けた瞬間を思いだす事には抵抗があった。
「口に出さなくていいですよ。姫様の心の中でだけ、整理してみましょう」
口を閉ざしたクレアをどう思ったのか、クロードはそう言った。いつになく優しいクロードを見上げ、クレアはようやく口元を緩める。
「クロードって、時々年上みたいなこと言うわよね」
「お忘れのようですが、僕の方が姫様より二つ年上です。……それじゃあ、兄上が戻ってくるまでに解決しましょう。考えてください。兄上の何がそんなに気に障ったんですか?」
「イグニスが?」
意外な名前を挙げられ、クレアは瞬く。しかし、クロードはクレア本人ですら理解できない怒りの正体に気がついているのか、確信を持って重ねた。
「兄上ですよ。姫様の不機嫌の原因は」
色街を楽しく探索していたクレアが急に腹を立て、離宮に帰ると踵を返したのは、イグニスを発見してからだ。
イグニスと娼婦が口付ける瞬間に、クロードの背中に隠れていたはずのクレアが大声をあげた。
タイミング的には、これ以上の時はない。
(イライラしたのは、イグニスがあの人にキスしたから……?)
他にも気になったところはある。
イグニスの娼婦への接し方。触れ方。乞われて簡単に唇を許した事。
それらの全てが、ことごとくクレアには面白くなかった。
自分の騎士であるイグニスは、常に自分を優先すべきだと思い込み、自分以上の接し方をされた娼婦に嫉妬した。
(わたしは、イグニスが……)
好きなのだ。
ようやく見つけた感情の名前に、クレアは驚く。だが、そう考えて見れば、色々納得のいくこともある。カルバンのような触れ方を顔も見たことのない縁談相手にされると思えば身も竦むが、同じ事をイグニスに置き換えてみれば平気だと思った。
それはつまり、そういう事だったのだ。
イグニスの用意してきた馬車に彼と対面に座り、クレアはそわそわと視線を泳がせる。機嫌の直ったクレアに気を使ったのか、クロードは御者台に座っているため、馬車の中はイグニスとクレアの二人だけだ。
自分の恋心を自覚したクレアは、イグニスに対して自分が行った数々の蛮行――秘するべき場所を洗えと命じたり、一緒に寝ようなどと誘ったりした事――を思いだし、恥らう。無知というのは、本当に恐ろしい。
馬車の中に入れば外からは見えないのだから、と早々に頭から降ろしてしまったショールが悔やまれる。せめてコレを被っていれば、赤くなったり青くなったりとしていると思われる自分の顔色は隠せたはずだ。それでなくとも顔を合わせづらい状況に、クレアは口を閉ざしたまま正面に座るイグニスの胸元を見つめる。
「……姫様」
「はいっ!」
クロードが上手く宥めたらしく、すっかり機嫌の直ったクレアに、イグニスは口を開く。馬車の外では先に怒りはじめたクレアに気勢を殺がれ、話すことが出来なかったが、色街へと遊びに来た姫君にはお説教が必要だ。
そうは思うのだが、なにやら可愛らしく百面相を披露するクレアに、イグニスの中の怒りまでもが鎮火されてしまった。
叱るべき時には、しっかりと叱らなければならないのだが。
イグニスの呼びかけに即反応し、身を硬くして何事かを構えるクレアに苦笑し、イグニスは小さく頭を振った。
そんなに愛くるしい顔をされては、何もいえない、と。
これが惚れた弱みか、とイグニスは苦笑する。
「……あの」
呼びかけたくせに何を言わないイグニスに痺れを切らし、今度はクレアが口を開く。
はい? とすぐに応えはあったが、特に用事があったわけではないクレアは、俯いてイグニスの視線から逃れる。自分の行動を考えれば、イグニスは怒っているはずである。それなのに、穏やかに瞳を細めて微笑まれてしまっては、クレアでなくとも居心地は悪いだろう。
「その……」
何か用件はなかっただろうか。
忙しく思考したクレアは、自覚したばかりの感情に従い、素直な疑問を口に出してみた。
「イグニスは、わたしのこと……」
どう思っているのか。
うっかり直球で聞いてしまいそうになり、クレアは慌てて言葉を区切る。
自覚したばかりの恋心では、女性として好きか嫌いかまでは聞く勇気がなかった。
「その、……守ってくれる?」
例えば、父の毒牙から。
「もちろんです!」
一瞬の迷いも見せず即答したイグニスに、クレアはホッと胸を撫で下ろす。これまで数々の蛮行、奇行で振り回してきたが、愛想は尽くされていないらしい。
「じゃあ、連れてって」
「どちらへですか? さすがに、色街にはもう二度と……」
姫君の足を踏み入れさせるわけにはいかない。もとより護衛をつけようと、姫君でなかろうと、若い娘の来る場所ではない。
「わたしを連れて、どこかへ……逃げて欲しいの」
場所はどこでも構わない。父と縁談相手から逃れることができるなら。
「……は?」
聞き間違いかと耳を疑い、イグニスは瞬く。一拍、二拍と間を置くと、徐々にクレアの言葉が脳に浸透していった。
「それは、つまり……」
「お父様の選んだ方に嫁ぐのは嫌です。だって、お父様がわたしにしようとした事を、その方もするのでしょう? わたし、もうあんな怖い思いはしたくないわ」
同じ事をされるならイグニスが良い、という言葉は飲み込んだ。
ほんの少し前まで、自分の結婚に対してなんの疑問も持っていなかったはずなのに。
急に連れて逃げろなどと言い出したクレアに、イグニスはカルバンを恨んだ。
実の娘に下手なすけべ心など出すから、こんな事を言い出すようになったのだ。軽い男性不審から来る、父親への反発。そうでもなければ、クレアが父親に逆らおうなどと言い出すはずもない。我侭なクレアではあったが、過去一度も父親に逆らったことなどなかった。
「姫様、アレはお館様が少々順番を無視されたから驚かれただけです。ちゃんと段階を踏み、神の前で愛を誓い、旦那様と夫婦としての愛を育めば――」
「嫌っ!」
むぅっと子どものように顔をしかめたクレアは、聞く耳を持たない。こうなってしまえば、説得ができるのは乳母ぐらいだ。イグニスにはどうにもできない。
「……足は、大丈夫ですか?」
「うん? ちょっと痛いわ」