我侭姫と下僕の騎士
廊下に蹲るクロードに意識はなく、それを看護するフィリーにも血の気はない。
傍らに膝をついたイグニスの気配に、フィリーは青白い顔を上げると気が緩んだのか、鼻を鳴らした。
「イグニス様、お館様が……」
フィリーの喉から搾り出される言葉を最後までまたず、イグニスは腰を上げる。
「姫様! 失礼します」
普段であれば誘われても入らない湯殿ではあったが、今はそんな事を言ってはいられない。意識のないクロードと青ざめたフィリー。緊急事態を告げるには、十分すぎた。
扉を開けて一歩、支度部屋へと足を踏み入れる。すぐに倒された衝立と、その奥で乳母にしがみ付いて震えるクレアの姿を見つけた。
「姫様……」
歯の根も合わないほど震えてはいるが、隣に乳母がいるので、クレアは無事だったのだろう。乳母のカーラは、自分よりもクレアに仕えて長い。己の母乳を与えて育てた娘も同然のクレアを、みすみすカルバンの毒牙にかけるはずもなかった。
一先ずは安心。
そっと胸を撫で下ろすと、むき出しにされたクレアの白い半身に気がつき、慌てて背を向ける。無事だったとは思うが、無傷ではない。
「……イ、グニス?」
「はい」
確認するように小さな声で名を呼ばれ、イグニスは項垂れた。
「イグニスの馬鹿バカ! 呼んだのに。何度も呼んだのに、なんですぐに来てくれなかったのよっ!」
背中に突き刺さるクレアの叱責が、痛い。が、甘んじてそれを受ける。クレアの大事に、側にいれなかったのは事実だ。
「申し訳ございません」
警戒はしていたが、油断してしまった。
ほんの一時間ならと町へ出てしまい、その結果がコレだ。
「……姫様、イグニス様を責めるのはそのぐらいにして、先に服をお召しになりましょう」
カーラに支えられて、クレアは立ち上がる。
肝心な時に役に立たなかった騎士だが、イグニスが戻った事でようやく本当の意味で安心した。先程までは全然力の入らなかった腰だったが、今はなんの抵抗もなく立ち上がることができる。
「……気持ち悪いわ」
立ち上がったことでわかった事だったが。
カルバンの残していった唾液が内腿を伝い落ち、気持ち悪い。
唾液といえば、クレアの口の中にも同じものがあるはずだが、カルバンの残していったそれは、なんだか別の物のように感じる。確固たる理由はないのだが、不潔で汚く、ばい菌や毒が粘液質をもって太ももを這い回っているようで、薄気味悪い。
珍しくも嫌悪を顕わにしたクレアに、カーラは宥めるように優しく肩を抱いた。
「では、湯浴みが先ですわね。綺麗に洗って、気を落ち着けましょう」
「洗う?」
この洗う時以外は触ってはいけない場所を?
自分の手すら侍女に洗われるクレアが、唯一自分で洗うよう躾けられた場所を、今、洗う。
それはつまり――
「……イグニス」
「はい」
「洗って」
「……は?」
クレアとしてはこびり付いた気持ち悪いものに触りたくはない。自分が嫌だと思うものを、乳母のカーラに触れさせるのも残酷だ。では、クレアの周りから危険を排除するのが仕事のイグニスに任せよう。
クレアとしては、単純にそう思っただけなのだが、さすがのイグニスも、自分の耳を疑った。
「イグニスが洗って。気持ち悪くて、もう触りたくない」
自分が触りたくないほど嫌悪するものを、おまえが取り除け。そうクレアが言っている事を理解し、それでもイグニスは躊躇った。
自分の失態のせいでクレアを恐ろしい目にあわせた負い目から、今ならどんな我侭でも聞く覚悟があるが、男であるイグニスには聞けない我侭もある。
「姫様、それはさすがに……」
「いや。イグニスが洗って。元はといえば、イグニスが呼んでも来ないから悪いのよ」
「それは謝ります。警戒はしていたのですが、油断をしたのは私の落ち度です」
「だったら……」
「ダメです。というか、男にそこを触らせてはいけません」
「お父様は触ったわ」
「父親であっても、普通はダメです」
そもそも普通の神経をした父親であったら、実の娘の秘処には触れないし、見ない。
背中を向けたまま答えるイグニスに、クレアは唇を尖らせる。父が毒を残していったそこに、どうしても自分で触れることはしたくなかった。
さて、どうしてイグニスの首を縦に振らせてやろうか。
苛立ちを瞳に込めてクレアが騎士の背中を睨みつけていると、躊躇いがちにイグニスが乳母に話しかけた。
「……姫様の花嫁教育は、どうなっていますか?」
勉学であれば自分が教える事も、授業に付き合うことも出来るが。
女性が受けるべき特別な授業となれば、男性であるイグニスは進行状況を把握する事ができない。
間違いを犯さぬよう、貴族の娘が余計なことを教えられないのは珍しいことではなかったが、年頃を向かえ、縁談の決まった姫にしては、クレアは無防備すぎる。
幼馴染という絶対の信頼からくるものと言うよりは、それについてはまったくの無知であるような――?
「そろそろお教えする予定でした。嫁ぐご予定のある姫ですから、夫婦の夜の営み、夫の喜ばせ方などを、これから嫁がれる日までゆっくりと時間をかけて……」
「予定を繰り上げてください」
せめて、幼馴染兼姫付きの騎士とはいえ、女性が男性に対してもっとも秘する場所を洗えと言い出さない程度には。
「そうでございますね」
イグニスと同じ事を感じていたカーラは、すんなりと同調した。予定を繰り上げるどころか、真っ先に躾けなければならない。
「さあ、姫様。少し予定が早まりましたが、大切な授業をいたします」
「触りたくないわ」
二人に挟まれて会話を見守ることになったクレアは、なんの話をしているのかは理解できなかったが、イグニスが自分の体に不着した毒を洗い流してくれないことはわかった。
不快感を隠すことなくクレアがカーラを見上げると、乳母は苦笑を浮かべ、指の腹で姫君の眉間に寄せられた皺を伸ばす。
「今日のところは、お手入れの方法をお教えしながら、私が洗います。ですが、明日からはご自分でなさってくださいね」
湯殿へと入っていく二人を見送り、イグニスは支度部屋を出る。クレアにとんでもない我侭は言われたが、元気な姿に安心もした。もう一つ確認をして、安心したいことがある。
廊下へ戻ると、小さなうめき声が聞こえた。
丁度目を覚ましたらしい。
薄く目を開け、緩慢な動きで瞬く弟の横に膝をつき、イグニスはクロードの身体を助け起した。
「……兄上?」
自分を助け起しているのが兄だと理解すると、クロードは一瞬だけ表情を和らげ、すぐに悔しげに顔を歪めた。
「申し訳、ありません。姫様を……」
「いや、いい。姫様をお守りできなかったのは、私も同じだ」
「兄上……」
薄く唇を噛み、クロードは顔を俯ける。クレアを守れなかった事について言い訳はしたくなかった。
「クロード様は悪くありませんわ。相手はお館様ですもの。誰も逆らえなかったのです」
帯刀を許された騎士であっても、その剣の主である城主に剣を向ける事は出来ない。
ただの侍女でしかないフィリーでも同じだ。
クロードとフィリーに出来たことは、身体をはって時間を稼ぎ、稼いだ時間で乳母を呼ぶぐらいだった。