とまととからす
「私には記憶が無いんだ」
そう告げた鳶色の綺麗な目は少し物憂げだった。
「名前の記憶も過去の経歴も、ある朝目覚めたらすっかり頭の中から抜けていた。家はあるし財産もある程度はある。でも、生きているという実感が無いんだ。誰かの続きを生きているそんな感じがいつも私の中には渦巻いている。だから私だけの何かがほしいんだ」
私の人生の私にしかないものをね。と悲しげな笑いを浮かべて言う。
「たとえば・・・?」
「たとえば愛だよ」
「あ、い?」
「そう、愛。それは私という人格を愛してくれなければ意味が無いのだけどね」
「愛・・・」
「愛してくれる人は私を愛してくれるんだ。私という人格を。それは昔の私でなく今の私にしかないものだから私だけの『何か』になりうるだろう?」
「なるほどね」
「しかし、そう簡単に私を愛してくれる人なんていないんだ。愛が薄いんだよ。君はどうだい?」
「なにが?」
「君はきっと君にしかない何かが私とは違う理由でほしいんだろう?」
「・・・・・・」
「win-winな関係になれるのなら手を貸してくれないかい?」
僕は僕だけの特別な何かがほしいのか。
確かに、糞みたいな話の主人公もモブも嫌だ。
現状が変えられないというなら僕としては自分はどうだっていいのかもしれない。
それに・・・彼なら僕の話を書き換えてくれる。
そんな気がする。
「君は僕の物語を変えてくれるかい?」
僕はいつの間にか口からそう漏らしていた。
本当の望みなのかもしれないしきっと足りないと錯覚しているだけなのかもしれない。
そんな僕に彼は一瞬驚いた顔をしたかと思うとすぐににこりと最初のように笑い
「私を君が愛してくれるならね」
と言う。
手を差し出され僕は握る。
契約の証だ。
「とりあえず、君のためにも私から告白させてもらうよ」
「どうぞ」
「私は君が好きだ」
僕の話はどうやら彼との愛の物語になるようだ。
「僕も君を好きになったよ」
青いトマトは今から烏に食べられるために熟し始めたのかもしれない。
僕の人生もまた、ここからがスタートだ。