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幻影夢想愚話

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 そこでは実に様々な生き物が暮らしていた。
 例えばそれは空を往くものであったり、海を渡るものであったり、大地を駆けるものであったりするのだ。
 かつては互いに恐れ、憎み合い、争ったものたちの子供らが、手に手をとって歩む姿はなんと美しいことか。
 この星に属するすべての生命が互いの存在を認め合ったのだ。
 悠久の時を経て、暗く冷たい旅路の果てに辿り着いた永住の地。
 探し求めていた楽園は意外にもこんなに近く、我らの足元にあったのだ。

 今はただ穏やかに、時だけが流れてゆく。

「箱舟がきたよ!」
 誰かがそう叫ぶのを聞いた途端、チナはたまらずに駆け出していた。待ち合わせをしていた楠の大木を離れて、木立の合間から夜空を仰ぐ。
 金の星と白い綿雲をちらした群青の空は、まるで青金石を敷き詰めたよう。木々の黒い影に切り取られたその真ん中に、白く大きな優しい光が現れた。
「箱舟だ!」
 森の上をゆっくりと過ぎる箱舟を何度も仰ぎながら、チナは丘の上の物見やぐらへと急いだ。
 待ち合わせていた親友も、おそらくすぐに後を追ってくるだろう。
 手にしていたホタルブクロの花を口にくわえて、長い梯子をすばやく駆け上がる。先客のいない物見やぐらの突端でぐんと伸び立つと、チナは瞬きも忘れて箱舟に見入った。
 月兎の大樹から削りだした箱舟は、全身から乳色の優しい光を放っていた。
 帆にたっぷりと風を受け、幾筋もの光の帯を描きながら、悠然と群青の海原を進んでいる。
 まるで本物の月のようだと、チナは思った。
 身を乗り出して夢中で眺めるうちに、手に握っていたホタルブクロの花を危うく落としそうになる。
 眼下に広がる雪柳の丘の広場に、ひとつ、またひとつと小さな淡い光が灯る。美しい箱舟の姿を一目拝もうと、見物人が集まり始めているのだ。
 皆が一様に手にしているのは、灯火の代わりとなるホタルブクロの花。
 いつもなら大きな月が町をくまなく照らしてくれるので夜道に灯りはいらないのだが、今夜だけは特別だ。
 年に一度の、月の祝祭。
 今夜は月が昇らない。
 四つの季節が一巡りする間、休むことなく夜の闇を照らしつづけた月が、今夜一晩だけその身を休める。
 月を労い、感謝の意も込めて今夜一晩その代役を担うのが、今チナの目の前をゆく箱舟なのである。
「……きれいだなぁ」
 まっすぐな細いヒゲが知らず知らずのうちに箱舟のほうへと向いてしまう。
 箱舟の光に照らされて、チナのやわらかな鳩羽色の毛並みが乳色に濡れた。
「チナ! そこにいるかい?」
 呼ばれて後ろを見やると、床板に開いた梯子口から三角の耳がひょこっと飛び出し、次いでなじみの顔が現れた。
「モペト! 遅いじゃないか、早くおいでよ!」
 そう急かして、すぐに視線を空へと戻す。そこには相変わらずきらきらと輝く巨船が静かに浮かんでいる。
「ほら、ほら、箱舟だ。ちょうどぼくらの目の前を通るよ!」
 言葉にしがたい荘厳な景観にどうしようもなく胸が高鳴る。
 年に一度きりしか拝めないこの美しく雄々しい船を前にして、興奮を抑えきれずにいるのはチナだけではなかった。ホタルブクロの花を握りしめて隣に佇む親友もまた、輝く巨船がゆく様に心奪われたよう。
「すごいなあ、あんなに大きな船が空を飛んでいるなんて」
 惚けたように空を仰ぐモペトが、感嘆の声をもらした。
「大昔はもっと大きな船がたくさん空を飛び交っていたって、おじいちゃんから聞いたことがあるよ」
 親友の横顔にそう話し掛けると、三角の耳がぴんとこちらを向き、次いで緑柱石によく似た瞳が空を離れてこちらに向けられた。
「それ、本当かい?」
 訊ねられ、力一杯にうなずく。いつもはこの博学な親友に教わってばかりなのだが、鉱物と古代文明に関する知識だけはチナの方が上だった。箱舟を目で追いつつ、チナは冒険好きだった祖父から寝物語に語られた冒険記の一つをモペトに話して聞かせた。
「——その古代遺跡の塔で、おじいちゃんは動く壁画を見たんだって。光る硝子をいくつも積み上げた大きな壁に、いろんな絵が映るんだ。しかもその絵はひとりでに動くんだよ。まるで何百人もの影絵師が後ろにいるみたいにね」
「本当に影絵師が後ろにいたんじゃないのかい?」
「おじいちゃんもそう思って壁の裏側にまわってみた。けれどね、壁はとても薄っぺらで、とても誰かが入れそうにはないんだよ。それに映し出される絵は、影絵の人形たちじゃとても演じきれないような……今まで見たことのないものばかりだったんだ」
 身振り手振りを交えて、チナはまるで自分がその光景を見て来たかのように語った。
「数え切れないほどの四角い塔の群れや、赤い光が流れる川。まるで鳥のように翼を広げて空を飛ぶ大きな船も、そこに描かれていたんだって。すごいよねぇ」
 嬉々として語られるチナの話に、モペトも瞳を輝かせた。
 自分たちの日常からは想像のつかない、大昔に捨て去られた古代文明。
「どんな世界だったのだろう、大昔のこの星は」
 遠ざかる箱舟を見つめながら、遠く過ぎ去った時代に思いを馳せる。
「見てみたいね……いつか」
 遥か彼方にそびえたつ瑪瑙山の向こうに淡い乳色の光が完全に消えてしまうまで、二人は静かに空を眺めていた。

fin.
作品名:幻影夢想愚話 作家名:緒浜