赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep2.姉妹
「ハイラちゃんがやったの? そうなの?」
「そうならちゃんと言いなさい!」
「黙ってないで、言いなさい!」
「ハイラちゃん!」
先生方の、取り乱した声。……私が、やったのか? いや、違う。……はずだ。私の記憶には、ない。
「私は、やってません」
私は、そう言った。体中に怪我を負った男の子が、気の毒で仕方なかった。
「そう……そうだったの。そうよね、こんなひどいコト、女の子には、できないわよね……」
先生方はほっとしたように、私の手足を解放した。
途端に。
今まで静かに手当てを受けていた彼は。急に、体をよじった。傷だらけの腕にも足にも気を払わないで。……まるで、私から逃げていこうとするように。
「……大丈夫?」
私は、彼の手に触れようと、腕を伸ばした。
「…………ぃっ!」
掠れた悲鳴が、彼の口から漏れた。彼は怯えていた。私に。この、私に。
「大丈夫だよ、○○君。ハイラちゃんだから」
保険医の先生が優しく諭そうとするが、男の子は尚も、壊れきった体で私から逃げようと努力する。
「…………っ、ひいぃっ」
引きつったような声で、彼は私を拒絶した。首を、千切れるばかりに振って、私を拒否した。
「御免ねハイラちゃん……傷がひどくて、パニックになっているみたい」
「ハイラちゃん、教室に戻って、お話を聞かせてね」
「こっちに来ようね、ハイラちゃん」
そうして私は、彼を残して、教室へ戻った。先生方の尋問に長い間束縛されたあと、結局私は、話を『でっちあげた』。いくら思い出そうとしても――彼に殴られた後のことを、思い出すことが、出来なかったから。
誰が彼に、あんな非道な暴力を振るったのか。
いつの間に彼が、あんな非道な暴力を振るわれたのか。
その間……私が何を、していたのか。
私にとって、彼が私を殴りつけていたその瞬間と、次に記憶が繋がった瞬間は、連続していた――……繋がっていた。瞬きした、その次の瞬間には、彼はあの状態で、私は先生方に押さえつけられていたのだ。その空白の時間。私にとっては連続していた……。けれど実際には、その瞬間と次の瞬間の途中には、いくらかの時間が、あったはずなのだ。
でも。
私には、その時間の流れが、思い出せなかった。瞬間と瞬間を繋いだ。確かにそこに存在していたはずの時間が――……思い出せなかった。
「思い出せない? ……どんなことでも良いのよ、誰か、あの砂場に来なかったかしら?」
「その誰かが、○○君を、あんな目にあわせてしまったんでしょう?」
「怖い人で、ハイラちゃんに、言ったらだめだよ、とか言ってきたのかな? そうだとしても、何も怖いことなんかないのよ。先生に話してみて」
そこで私は、記憶をでっち上げた。……記憶を捏造した。
自分自身から失われた記憶を――補完するために。そして何よりも、『誰が男の子に暴力を振るったのか』という問題について頭を悩ませていた、先生方の、ために。
「……黒いコートを着た、男の人……」
「その人が、○○君を?」
「うん……」
「本当なのね、ハイラちゃん。どんな男の人だったの?」
「背が高くて……黒い眼鏡をかけてて、私に、『シー』って」
「静かにしていろ、って意味だったのかしら?」
「そうだと、……思う」
「その男の人が、どうやってここに入ってきたのか、分かる?」
「……知らない……」
「……そうよね。でも、有難う、ハイラちゃん。○○君、良くなると良いわね。今度皆で、お見舞いに行ってあげましょうね」
「……うん……」
幼稚園児の貧困な想像力によって作り出された話が、これだ。
黒いコートを着た男が、私に口止めした上で、同じ砂場にたまたまいた男の子を、壊れるまで殴り続けた。常識的に考えて、こんな意味不明な話、あり得ない。それでも先生方がそれ以上私に追及しなかったのは、ひとえに、私のその時の態度にあるだろう。
そう。
私は、……震えていた。
怯えていた、恐れていた。
密かに自分の心に近付く、確信にも似たその考えが……怖かった。
それは。――『○○君をあんな目にあわせたのは』。
ああ、――自分だ。
『他ならぬ、自分なのだ』、と。
そんな考えが、ぼんやりと、段々確実な認識を伴って、私に迫りつつあった。私は、それを避けるために……いや、それから逃げるために、自分自身の記憶を、偽ったのだ。
私には、分かっていた。
自分が記憶をでっち上げた、その本当の理由を。
自分自身の、失われた記憶を、補完するため? ――いや、そうではない。
『誰が男の子に暴力を振るったのか』という問題について頭を悩ませていた、先生方のため? ――そうではない。
私の理由。
私が、記憶を捏造した理由。それは。
私が、私自身を壊さないため。
自分の失われた記憶について思い出そうとすることで、自分の中の何かを壊してしまいそうな、そんな気がしたから。だから、私は私の記憶を、偽った。
私は、生まれて初めて――……、誰かに対して、嘘をついたのだった。
「有難う、ハイラちゃん。○○君にひどいことをした男の人は、ケーサツの人が捕まえてくれるって」
「○○君のお母さんも、あなたが証言してくれて、感謝してらっしゃるのよ」
「…………」
私は、沈黙するしかなかった。
何かを言えば、それらは全て、嘘になる。土台が嘘で出来た話なのだ。本当のことがあるわけもなく、犯人が捕まるはずもない。全てはいつしか、闇に消えていく定めなのだ。
そして私の嘘も、いつかは機能しなくなる。そうすれば、こんな苦しい思いを背負わなくても、済むようになる……。
そう考えていた、私。
それは、私が自分を庇うための、自分を守るための、正しい選択。……だった、はずだった。
作品名:赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep2.姉妹 作家名:tei