ソラニワ
001:脱出
黒い。まっくろだ。
まぶたを閉じてみる。まっくろだ。
まぶたを開けてみる。やっぱり、まっくろだ。
なにもない、からっぽの世界。
ぼくは、死んだのだろうか。
そう疑いたくなるほどに、目の前の闇は深かった。
闇というより、これは“黒”だ。すべてを呑み込む黒という色が、物質となって世界を埋め尽くしている。
少年は静かに呼吸をくり返した。
したたる水と、自分の息づかい。それ以外には何もない。
腕を持ち上げる。のしかかる色が重すぎて、指先がわずかに動いただけだった。
息が苦しい。どろりとした闇が鼻や口から流れ込み、少しずつ肺に溜まっていく。それは血液と一緒に体をめぐり、もしかしたら、すでに脳まで達しているのかも知れなかった。
外からも内からも、その色はじわりじわりと少年を浸食していた。
食われる——……。
低くうめいて、少年は頭上を仰いだ。世界がわずかに揺らぎ、闇が和らぐ。どこからともなく降るしずくの連なりが、細い光を受けてキラキラときらめいた。
肌に当たっては砕ける光のかけら。心地よいリズムに、感覚が徐々に戻ってくる。
すぐ目の前に機械の壁が見えた。気味の悪い壁だ。くねくねとからみ合うコードが、邪悪な生き物のように見える。四方を同じような壁に囲まれている。とてもせまい。
どうしてこんなところにいるのだろう。
手が重い。頭が重い。体が鉄のかたまりみたいだ。目の前で弾けているはずの雫の音が、やけに遠い。見えない手が耳を塞いでいるようで、気持ちが悪かった。
なんだか、世界のすべてが自分から一歩遠ざかってしまったようだ。
頭上の白い亀裂が、悲鳴に似たきしみを上げて広がった。
光の中に影が揺らめく。
「……ソラ?」
人の声。誰かいる。誰だろう。
「ソラ……ソラだな?」
ソラ。
それは誰のことだろうか。
「早く!こっちだ……手を、のばせ!」
光の中から伸びてきた腕に、無意識に手を差し出す。さまよっていた指先が触れあい、たぐるように手首を掴まれた。
あっと息を呑む。熱い。
人の熱。肌の感触。
生きている、命の手ごたえ。
少し意識がはっきりする。そこで初めて、ソラは自分が全裸で全身ずぶぬれだということに気がついた。思い出したように鳥肌がたち、ぶるぶると震え出す。寒い。というか冷たい。これでは人肌を熱いと感じて当たり前だ。
知らない腕に引っぱられ、ソラはせまく窮屈なところから引きずり出された。
途端に視界が真っ白になる。
「……——っ!」
両手で目を覆う。痛い。まばゆい光が両目に突き刺さる。
暖かい手が肩に触れた。
「大丈夫か?」
静かな声だ。まだ若い。心配そうではあるけれど、不安げではない。真夜中の澄んだ空気を思わせる、不思議と心地よい声だ。
痛みが徐々に治まっていく。恐る恐る両手を外すと、にじむ視界の向こうに一対の瞳が見えた。
わずかに緑みがかった、深い青。ほとんど黒に近いのに、どこまでも澄んでいて、底がない。
不思議な色。本当にきれいな色だ。人間の細胞が作り出したとは到底思えない。これは虹とか夕焼けとか、人の手には負えない類いの色だ。
夜空色の瞳をゆっくりと瞬かせて、少年は言った。
「ケガはないか?どこか痛いところは」
熱い手のひらが肌の露を払う。
少年は、かっちりとした作りの上着をまとっていた。どこかの制服だろうか。上等な布だ。細身で裾が長く、ボタンがいっぱいついていてかっこいい。お城とか舞踏会とかにも着ていけそうなくらい上品な感じがする。
なにより灰色の上着は、少年の黒髪によく似合っていた。
ふいに少年の手が止まる。ぐっとなにかをこらえる面もちで、少年が薄いまぶたをふせた。
「ソラ……本当に、ソラなんだな……」
噛み締めるような呟きに、ソラは思わず首を傾げる。
ぼくは本当にソラなんだろうか?
恐ろしいことに気がついて、ぞわりと全身の毛が逆立った。
わからない。思い出せない。
自分が本当にソラなのか。
この少年が誰なのか。
頭のどこを探しても、“記憶”というものが見つからなかった。
からっぽの体に、風が吹きすさぶ。
“記憶があった”という記憶だけが、かろうじて頭の隅に引っかかっていた。
誰かと過ごした時間。歩んできた景色。育んだ想い。願い。
そのぬくもりだけが、残っている。
大切だったはずだ。あたたかかったはずだ。
それが、なくなってしまった。
なぜ失くした。どこで落とした?
「ソラ」
肩を掴まれる。あざやかな色のまなざしが視界に飛び込んできた。
「しっかりしろ、大丈夫か?」
どこまでも澄んだ色。これに似た色を、どこかで見たことがある。
ああ、そうだ。
よく晴れた冬の夜、はるか彼方の上空で輝く『神ノ庭』の淡い光がこの国にも届くと、空がこんな色に……。
「あ……!」
ソラはいま初めてまぶたを開いたような心持ちで、目の前の少年を見つめた。
知っている。ぼくはこの人を、この瞳を知っている。
“知っている”ということしか思い出せないけれど、ただそれだけが、からっぽのソラを満たし、ソラを“ソラ”にした。
少年がふいに顔を上げる。眼光がにわかに鋭くなった。
「来たか」
少年の横顔が、抜き身のナイフに似た鋭利な光を帯びる。俊敏に立ち上がると、少年は着ていた上着を脱いでよこした。
「とりあえず、これ着とけ」
さらりと乾いた布の感触が、濡れた肌に心地よい。かすかに残る少年の熱とにおいが、冷えた体をまるごと包み込んだ。
なんだか、安心する。
鼻の頭まで上着を引き上げて、ソラは深く息を吸い込んだ。
「立てるか?」
問われてうなずいたものの、体が思うように動かない。
少年の腕を借りてようやく立ち上がると、どこからか荒々しい靴音が近づいてきた。少年がソラを背に庇うのとほぼ同時に、数人の男たちが並んだ装置の間から飛び出してきた。
「動くな!」
向けられた銃口に息を呑む。
銃身の先にぽっかりと空いた穴が、少年とソラを見つめていた。
ぎゅう、と臓腑の奥がせり上がる。
身を縮め、少年の背中にしがみつくと、夜色の瞳が振り返った。
切れ長の双眸が、ふっと微笑む。
「心配するな」
少年の腕が静かに上がる。パキン、とガラスを割る澄んだ音が響き、少年の手のひらに、無色透明の物体が現れた。
ガラス……いや、氷?
それはパキパキと音を立てて長さを増し、数秒のうちに人の背丈ほどになった。
いつかどこかで見た、鉱物の結晶に似ている。
細長い棒状の物体で、少年が床を軽く打つ。透明な音とともに、目には見えない何かが波紋のように広がって、足首あたりをかすめていった。
「『支柱晶』……!」
「魔法士が、なぜ……」
男たちが途端に動揺する。銃口をさげる者、顔を見合わせる者、みな困惑した表情を浮かべている。
『支柱晶』をくるりと回転させ、少年は二本の指で水平に空を切った。とてもなめらかな動きだ。それは波紋をたてずに水面をなでるような繊細さで、柔らかく、どこか優雅でもあった。
少年の指先にあわせて、銃口がわずかに揺らぐ。
「……銃身を曲げた。指を吹き飛ばされたくなければ、引き金は引かない方がいい」