生物は温かい。
「あ、お腹空きましたか?じゃあ今からトースト焼くんで少し待っててください。」
僕は少し慌てて彼女に返した。
そうなのだ、僕は昨日彼女、つまり青山浬を、…僕の上司を家に連れてきて泊めてしまったのだ。
…いや、違うな。
連れてきたというより拾ったのが正しいかもしれない。
昨日の彼女は雨に濡れた仔猫の様に縮こまっていた。
雨など降っていないのに。
そして昨日の彼女の瞳にはそれと同じくらい何も映っていなかった。
どうやらどこか遠くの世界、それもひどくぼやけた世界を必死で見つめているようなのだ。
…だから僕は、彼女を連れてきてしまった。
まったく後先も考えず、でもちっとも後悔はしていない。
あぁ、でも、それなのに…。
僕は何処かの文学少年よろしく大袈裟に溜め息をつく。
…なぜ僕はこんなほっこりとした溜め息をついてしまう?
いい歳にもなって。
…ちらと横目で彼女を覗くとおとなしく座って子供みたいな表情で僕を(正確にはパンを)待っていた。
どうやら、僕の知ってる青山浬はここにはどこにもいないらしい。
いるのは庇護者を待つちっぽけな生き者だけだ。
それは塀の中で縮こまる民の様にも父親の広い背の影に隠れようとする幼い子の様にも見えた。
…そして頼まれたわけでもないのに僕はその役目を負おうとしている。
「まだー」
そんな僕の思考を知ってか知らずか青山浬は呑気な声で僕に催促した。
甘えるような、柔らかいトーン。
「…そんなすぐにできませんよ。」
僕は出来るだけ緊張を押しとどめた声で答える。
でも少し震えてしまう。
これじゃ本とに中坊みたいじゃないか。中3のハトコのタカシを可愛いなぁなんて見てる資格がない。
青山浬は美人だった。
能面じゃない、かといってちゃんとした表情を持っているわけでもないのに、彼女はれっきとした美人だった。
恋、ではない。
かといって、愛、でもない。
それなのに勝手に僕の中を歩き回るこの達成感というかわくわく感はなんだろう。
何処かで感じたことのある、懐かしい気持ち。
…クリスマス?
いいや違うな。
確かにわくわくはしてたけど、僕は結構冷めた少年だった。
入荷待ちで最近やっと届いた木製のバターケースを取り出す。
僕は美しくやけたトーストにたっぷりとバターを塗った。
いつもより念入りに。
僕は料理が嫌いじゃない。
でも最近はトーストぐらいしか作っていなかった。
男の一人暮らしの上に紗英子がわりに料理がうまかったので特に作る必要性に迫られなかったのだ。
だからあっさりとその特技を手放してしまった。
僕はもとよりあまり何かに執着心がない。
大学時代は同じ寮部屋だったむさくるしい男どもに家庭料理を振る舞ってやって母親扱いされたりしていたが…。
…ん?
「あ」
「え?」
僕の独り言に青山浬がきょとんとした返事をした。
…青山浬が「きょとん」?
会社のメンバーは思いもしないだろう。
(…あぁ、そうか。)
「なによー」
僕は彼女に向かって苦笑した。正確には自分に向かって。
僕は元来世話好き人間なのだ。
…タカシに対しても、友人に対しても、昔飼っていた柴犬に対しても。
「まぁいいや。パンちょうだい」
僕ははいはいお嬢さんと皿をおいた。
内心、こんな世話しがいのありそうな生き物は初めてだと思いながら。