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生物は温かい。

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温かい


例えば誰が悪かったとか言えたなら。
簡単にわかったならよかったのだろう。
けれどそんなことは勿論無理な話だし、今更そんなこと言っても仕方ないのだ。
事実はただひとつ。
私の日々の生活にはなんの変化も生じてないということ。
私は相変わらずひとりぼっちで空っぽで馬鹿で冷静なのだ。
きちきちと仕事をこなしそして家に帰る。
あいつからは相変わらず何の連絡もこないし実家には父の葬儀まで帰るつもりはない。
朝が来て昼が来たら夜が来る。
そんなことはよくある話である。

ただ、か弱いふりをしたかっただけなんだ。多分。

だってあのこがいない。
いなくても私は生きている。
息をしてるのだ。

私は息を吐く。
デスクには到底明日までに片付きそうにない仕事の山の残骸が残っていた。
近頃仕事を詰め込みすぎていたのだ。
いつもだったらこんな有り様にはならない。
これは変化の一つに組み込んだ方がいいのだろうか。

要らなくなったポストイットを2、3枚一気に引き剥がす。
新しいストレス解消法ね。
意外とすっきりする。

「青山ちゃん。」

突然呼び掛けられ書類を持つ手が止まった。
いつのまにやら合田さんが背後に立っていた。
もう会社にいるのは私だけだと思っていたのに。

合田さんはありふれたサラリーマンのありふれた疲労の笑みを浮かべていた。
この人もこんな顔をすることがあるんだと少し驚く。

「お疲れさん。大変だねいつも遅くまで。」

私は黙って彼を見た。

歳のわりには腹がへっこんでいる。
私はそこを評価した。

「あのさ、俺聞きたいことが…。」

評価してキスをした。
合田さんはガタッと机に手をつく。
へぇ、と思う。
人は見かけによらないみたいだわ。
この人はもっと飄々と受け流すタイプだと思っていた。

「…青山ちゃん?」

「贅肉が」

「え?」

「贅肉が無かったので。」

合田さんは一瞬目を見開き、なんだそりゃあと静かに笑った。
笑って私を見た。
ひどく優しい笑みだった。
まるで何もかもわかっているような。
やっぱり受け流すのが上手い。薄情ものね。

あのこのキスを受け流した私が言えることではないけれど。

「…びっくりしたじゃん。おかげで何言おうとしたか忘れるとこだった。」

「何ですか?」

「あいつ明日からまた出社するんだけどね。…青山ちゃんって…」

びっくりした。
びっくりしない自分にびっくりした。
合田さんは構わず言葉を続ける。
煙草の匂いがする。あいつと同じ煙草だ。

「…まぁいいや。何でもない。」

合田さんは眠そうな顔で首を振る。

「何で。」

「…ん?」

月が見ている。
月はいつもひっそりと私たちを見ている。
だから私は生きている。

「何で私に言うんですか?」

んあー、と頭をかきながら彼は笑った。ニカッと豪快に。
私はぐらぐらと倒れそうになる。
激しいデジャヴ。
讃美歌が。

「ほら、似てんじゃん。俺ら。」

その答えに、私は黙りこくってしまう。
理由にはなっていない。
セクハラになりかねない。
でも、彼の言いたいことはわかってしまう。
私たちはガラスを張る人間だから。
自由に游ぐ魚に惹かれてやまない、愚かな大人だから。

「あれ?怒った?」

「…て。」

「ん?」

「割って。」

「…何を?」

唇からぽとぽとと言葉が漏れる。
あぁ。
そうなのか。

「…わからないわ。」


私は泣いてるようだった。
涙は温かく私の頬をつたった。

割って。お願い。
ガラスを。

そんなこと言えるわけがない。
誰でもいいから。
誰でもいいから。

だって気付いてくれる人なんていない。
あのこしかいない。
あのこしかいなかった。


頭に温もりを感じる。
この人はガラスを割る人じゃない。
ぽすぽすと私の頭を撫でながら、口にチョコを突っ込んだ。

「これセクハラか?いや、もう逆セクハラ受けたからな。」

そう言って彼は私の頭をぐりぐりと撫でる。

彼はガラスを割る人じゃなかった。
ガラスのドアを開ける人だったのだ。


「大丈夫だよ。いつもどっかには誰かいる。もし誰もいなくってどうしようもなくなっても俺がいる。36の一人ヤモメだから大抵どっかにはいるぞ。最近ならデパ地下かロッククライミングだな。相当距離あるけどデパートにいなかったら山に来ればいるはずだ。セクハラ…は多分しない。だからさぁ、青山ちゃん。」


彼はまだ笑っていた。
私のほっぺたをつまみ上げる。

「ほら、いいかげん笑いな。君一人ぼっち症候群にかかってるだろ。」


ほれほれと合田さんは私の口に次々チョコを突っ込んでいく。

私はあまりのことにショックを受けていた。
それだけだったのか。
そんなことを気づかなかったのか。

たったそれだけで、よかったのか。

生き物はみんな温かいんだと。


すっかり忘れていた。


「…合田はん。」

「んー?」

「くるひいれふ。」

チョコで一杯の口で何とかそう言った。
合田さんは一時停止して私を睨んだ。

「…それはだめだろ。ギャップ萌えか?止めなさい、まったく。俺はそんな誘惑に負ける単純な男なんだこれが。」


そして彼は私にキスする。

誰でもいいけど。
ガラスから私を出す人間は、一人しかいないのだ。

そんな単純なことにやっと気付いた。
あぁ、私はいつまでも馬鹿で冷静で子供な大人だったのだ。

ひとりぼっちでも、空っぽでもないけれど。

作品名:生物は温かい。 作家名:川口暁