天上万華鏡 ~地獄編~
「法とは関係ないが、汝のためにどれだけの者が罪を犯すことになったのか、そして地獄に行かなければならなかったのか汝も知っておろう? 汝ごときを守るために何人の天使が、天使として歩むであろう栄光の道から外れなければならなくなったのか……同じ天使として汝のしたことは許されるべきではないと思っている」
「…………」
春江は何も言い返せなかった。
「汝に判決を言い渡す」
地獄に来てからまだ数時間も経っていない。その上、裁判官であるカロルと会ってまだ十分も経過していない。検察事務官の記録やディスクがあるからとはいえ、余りにも早い判決である。
「汝を虚無地獄行きに処す。閉廷!」
春江はそれがどんな地獄か理解できなかったが、それを聞く間もなく、カロルはその場を去った。仕方なく春江は奥にある扉の方へ歩いて行った。
その場を去ったカロルは廊下を歩きながら呟いた。
「全ては誰かを救うため、自分がどんなに不利になろうとも、それを顧みず行動する。それが理由で地獄行き……人を救おうとする慈悲のために自らが犠牲に……聖母を気取っているのか! 法を軽く見やがって! 法を犯してでも貫く愛があるだと? 正義があるだと? そんなものが横行したら法なんて全く無意味なものになるじゃないか! 城島春江……地獄の底を這いつくばらせて、そんな愚かな考えをもてないようにしてやる……絶対にだ!!」
カロルは壁を力一杯殴ると薄笑いを浮かべながら鋭い眼光を光らせた。
「まずは、罪を犯したという事実のみを残して、それ以外は全て消去だ……地獄に聖母は必要ない」
カロルは長い廊下の奥に消えていった。
一方春江は裁判が行われた法廷を出ると、目の前にヨーロッパや中国の城を彷彿とさせるような高い城壁のような壁が現れた。その中央には、高さ数十メートルはあろうとかという大きな門がそびえ立っていた。
この門は、悶え苦しむ人間の姿が彫刻として描かれており、不気味な雰囲気を醸し出していた。
春江は、この門の前に立つと、門の正面に文字が書かれていることに気が付いた。
――――汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ
この門をくぐることが、地獄の始まりだと一目瞭然だった。しかしながら、一切の望みを棄てよと言われても、春江には春江なりの望みはある。この文章は、望みを棄てなくてはならない程、辛い目にあうということなのだろうかと、春江は勝手に解釈した。
この門は「地獄門」といい、地獄の入り口を指すものである。この門をくぐることで地獄という監獄での刑が執行される。いよいよ春江は、地獄へ足を踏み入れるのである。
春江は意を決して門をくぐり抜けようとした。近づけば近付く程、門に施されている彫刻が圧倒的な威圧感でもって春江に迫る。苦しみ悶える人間の彫刻は、春江に恐怖心を抱かせるには十分だった。
恐怖心に苛まれながらも春江は、一歩一歩足を進めた。ようやく門にたどり着き、くぐり抜けようとした瞬間、春江の体に透明な糸が巻き付けられ、身動きがとれなくなった。
「え? どうして?」
春江は、どうしてここで拘束されるのだろうかと疑問に思った。ここをくぐらなければ地獄に行けない。自分は地獄に行かなければならないのに、それを阻む意味があるのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
――――キュイーーン
いよいよ指の先まで動かせなくなったところで、目の前に天使が六芒星と共に現れた。
「私の名は、ホセ・ケレーナ。地獄門主任執行官である」
例のように名刺代わりの火柱が立った。ホセは火柱が消えるのを待たずして、用件を話し始めた。
「これより汝が地獄に入獄するにあたり、不要なものを全てここで没収する」
「不要なもの?」
「左様。それは汝の夢であり、希望である。地獄では一切もつことが許されない。地獄門の銘文にある通りである」
夢や希望を没収するとはどういうことなのか、春江は理解することができなかったが、即座にその意味を理解することになる。
「出でよ、メモリーケーブル。そして、罪人と連結せよ」
そう唱えると、春江の頭上に黒いコードが現れた。その先が春江の後頭部に差し込まれると同時に、ホセの頭上から椅子と一体化しているテーブル。そしてテーブルの上に設置されているパソコンのような機械が降りてきた。
暫くすると、そのパソコンに黒いコードが接続された。ホセは椅子につくと、パソコンを操作し始めた。
それと同時に春江の脳裏には、これまでの記憶が映像として映し出されていた。どうやらパソコンで春江の記憶を操作しているようである。
「ん? これは……」
パソコンのディスプレイには、春江の裁判を担当したカロルからの判決文と引き継ぎ事項が表示されていた。それを見たホセは表情を変えた。
「次長が直々に判決を? ……ほう……汝も不運だったな。睨まれた相手が悪かった」
一時パソコンを操作する指が止まったホセだったが、再び指を猛スピードで動かしていった。その間、春江の脳裏に様々な思い出が再生されていった。
「さてそろそろ始めよう」
その直後、春江の脳裏には、生前最も愛していた夫と湖のほとりで語り合っている様子が映し出された。
「庄次郎様……」
愛おしさが募る余り思わず呟いてしまった春江だが、その思いをホセは見事に打ち砕く。
「愛する男との甘い記憶……そんなものは必要ない。デリート!」
夫との風景が木っ端微塵に砕け散った。
「あ……あ……あぁぁぁぁ!!」
悲痛な叫びをあげる春江だが為す術なく立ち尽くすしかなかった。
続いて、雑然とした洋館の一室で自殺する様子が映し出された。
「愛する夫のために自殺した……誰かのために罪を犯すことで罪の意識に苛まれないようにしているのか? そんな大義なんて必要ない。デリート!」
「あぁぁぁ!!」
「その代わり、自殺という罪を犯したという忌まわしき記憶は綺麗に残してやろう。メモリープロテクト!」
このように、ホセは、地獄に来るまでに体験した大切な経験、譲れないものそんな様々な記憶を掘り起こしては、それを無残に砕いていった。次々に大切な記憶が消されていく春江は、弱々しくうめきながら、涙で頬をぬらした。
更にホセの容赦なき洗礼が続く。
「汝の死後、父親のように汝を育み、見守ってきた男が一人。そんな者は汝に必要ない。デリート!」
「汝の夢は天使になることだと? そんな馬鹿げた夢なんて必要ない。デリート!」
「哀れな霊を救うため、神仙鏡を盗んだ。人を救うためだから罪を犯しても仕方なかったと自分を慰めるのか? そんな大義なんて必要ない。デリート!」
「ふっ、その代わり、重罪を犯したという事実だけは残してやろう。メモリープロテクト!」
「汝を見守り、最後までその身を挺して守った天使が一人。そんな心の支えなんて必要ない。デリート!」
「ん? 汝を守るために、多くの霊が地獄行きか? 自己嫌悪するがいい。メモリープロテクト!」
「汝は、バイオリンを演奏し、その音色で哀れな霊を慰め救っているな。そんなどうでもよいことで自己満足しているのか? 穢らわしい……デリート!」
「最後に、城島春江という名前も必要ない。デリート!」
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ