咎の連理
一:将軍と参謀
時は大陸歴7627年、裂月(れつがつ)──どの国も不安定な天候が続くこの月、大陸の東に位置する藍国(ラン)では、国が崇める裂王(れつおう)が、晴天も曇天も関わらず雷鳴を轟かせる。特に月末は急激に冷え込み、翌月まで太陽が現れることはない。
見上げれば空には暗雲が垂れ込め、時折稲光を走らせながら、しんしんと雪が降り積もる夜。行燈の仄のめく明かりが障子を透かして、粉雪が舞い降りる姿を映し出す、その様を眺め遣りつつ床に横たわる病人が、ひとり。
常は一つに結い上げている黒い頭髪も今は枕の上に散り、やややつれて青白いその顔は、しかしまるで青年のように凛々しい。虚に見える眼差しも、奥底の光を失ってはいない。
布団にも身に纏う白襦袢にも皴ひとつ見当たらず、起き上がれば機敏に動き回れるのではないかと感じさせる風情である。
二十四畳のその座敷は、一人で住まうには広すぎた。置かれているのは桐箪笥と鏡台だけで、あとは何もない殺風景な空間。これが女性の部屋だと、誰が信じるであろう。しかし床に臥せる主──藍国三代将軍は、紛れもなくうら若い女性。未だ三十路に達していなかった。
静寂を破るように、控えめな音をたてて襖が開いた。
「夜分、お騒がせします事をお許しください、上様」
声の主の姿が、明かりを受けて闇にぼんやりと浮かび上がる。紺の着物を纏い、背筋を伸ばして座る様は堂々としているが、その眼窩は眼球を抉りとられたように落ち窪み暗い影を成している。しかしまるで見えているかのように、男の振る舞いは自然で、覚束ないところがなかった。
彼こそ将軍の片腕、数々の戦において知略を披露し、藍を勝利に導いた参謀である。
将軍は相手を確認するや、上体を起こして姿勢を正した。
「廉(れん)か。何があった」
参謀──廉は顔を上げ、言いにくそうに口を開く。
「西の国より神官が、上様にお目通りをと。どうなされますか」
「神官が……そうか。構わぬ、通せ」
「はっ。……では入られよ、巽(たつみ)殿」
《奥の殿》と呼ばれる将軍の間は、本来であればよほど位の高い者でなければ立入を許されない。外国人などもってのほかである。しかしこの時は、非常時だった。
「お久しぶりだな、露香(ろか)殿。相変わらずの美貌、患っても衰えはないようだ」
鮮やかな青の衣服に小豆色の襷。青国(セイ)《神官》の正装で現れた男は、黒髪に黒い肌、身の丈は見上げるほど高く、目の色は分厚いレンズに阻まれて窺い知れない。青国人は視力の弱い民族で、眼鏡に頼らねば生活できない者が大半だという。
彼は膝を折り腰を下ろすと、将軍露香の元へにじりよろうとした。
「ああ、三年ぶりかな。待て、巽、それ以上寄るな。これは流行り病……接触すれば感染するぞ」
「そしてそれこそが毒芽の正体……だな?」
眼鏡を妖しく光らせ、巽は唇の端を上げる。露香は苦々しい表情で頷いた。
「乱の終わりに芽吹く、大輪の華。あの緋色の華が撒き散らす花粉が……人の体内に蓄積し、強い想いと結び付いて結実するとき。……その人は鬼と成りはて、憎しみと殺意の炎を周囲に拡げる……」
十年をかけてゆっくりと枯れ、腐食していく緋の華が、完全に地に落ちる、それが始まりの合図。再び戦は始まり、毒芽が華開くために必要な肥やしを捧げ与えるように、人々は殺し合い、大地に大量の血を呑ませ、屍を喰わせる。
「もう、十分だ。たとえ繰り返すとしても……この戦は、このあたりで留めたい。手立てはひとつ……毒芽の花粉に穢れたこの国を残らず焼き払う」
尋常ならざる決意を込め、静かに言い切る将軍の眼差しには、有無を言わせぬ力があった。
「しかしそれでは、御身が」
無駄だと知りながら、廉は口を差し挟んだ。途端、露香の鋭い視線に射抜かれる。
「どうせ助からぬ命。このまま結実を待てというのか?否──私はせめて人として滅びたいのだ」
「では、本当にいいのだな。あの童女に火を放たせる」
「ああ。神の呪いは、神の御業によってのみ打ち消される。あの子供には些か酷な仕打ちだが──他に手立てはあるまい」
「……承知した。では、日が明くる前に事を為そう。後の事は、この青に任せられよ」
「ああ、頼んだぞ、巽」
音もなく、巽の気配が消えた。
残されたふたりはしばらく互いに言葉を発しなかったが、やがて露香が口を開いた。
「廉、お前は即刻この国を去れ」
「な……何をおっしゃいます!滅びるときは諸共と……」
「お前は毒におかされていない。ここでついえるには惜しい才だ。私を置いていく事を罪と思うなら、それは生きて償え」
「上……いや、露香、俺はここでお前と死ぬ。以前から決めていたことだ、今更心は変えられない」
「ならば、廉はここで死ぬ。私の片腕はここで私と共に滅びる。だが、違う人間となって生きよ。聞き分けのない事を申すな。誠の臣ならば従え」
行燈の明かりを映して、廉の瞳は揺れた。数瞬の沈黙の後に、溜息が漏れる。
「わかった、従おう。だがそれは臣としてではない。露香……お前の唯一の友としてだ」
露香は微笑んだ。性別を超えて心を通わせた幼馴染みに応え、将ではなく、ひとりの人間として。
「では、下がれ。ひとりにしてくれ」
再び訪れた静寂を、露香は座したまま迎えた。やがて雪明かりが橙に包まれ、煙の匂いがたちこめるまで、待ち続けた。
「さあ……早く来い、武臣。そして私を殺せ」
>次項【大陸暦7634年浸月 盲目と満身創痍】