光の箱庭
1.Le jouet qui fait l'abandon
暖かい部屋、優しい人々、柔らかな空気。それらは惜しげなく与えられた。何一つ不自由なことなどなかった。差し伸べられた手を握り、ぬくもりを分け、微笑み合い、時に共に涙した──ささやかで幸せな日々。それが奪われることなど考えもせず、当たり前だと思っていた。
日向に影が差したのはいつだったか。刃物のような言葉に容易く傷つけられ、互いの手を離してしまったその日から、光に満ちたあの庭が、ひどく疎ましく思えた。
額縁さえも美しい家族の肖像の中で、ただ自分だけが異質だ。慈愛に満ちた彼らの態度にいっそう追い詰められた。
注がれる愛情に偽りなどないことはわかっている、だからこそ、そこに違和感を覚え、光に溶け込めない自分がおぞましかった。
自分は存在してはならないのかもしれない。望まれない命かもしれない。
化け物かもしれない。この皮膚の下に流れるものは彼らと同じ色ではないかもしれない。たとえ同じ色でも、そう見せかけているだけかもしれない。
「お前はお前だ」
何度言い聞かせられようと恐れは消えなかった。必死に自分を受け入れようとする彼らの思い遣りが眩しく、痛かった。どんなに願っても彼らと同化する事はできないのだと思い知らされた。
拒絶する。心の奥底で。違うのだと。自分は彼らとは別の生き物なのだと。
どんなに考えても、無理やり前を向こうとしても、行き着くのはそんな結論だった。
願っているのに。誰よりもそれを望んでいるはずなのに。
──何故、生まれ方は自分では選べないのだろう。
間に合わないかもしれない。安奈は腕時計にちらと視線を遣り、重い鞄を背負い直す。今朝方の通り雨の所為で通学路にはところどころ水溜りができていた。はじめのうちは器用に避けながら進んでいたが、そのうちにそれも面倒になって、下ろしたてのスニーカーに泥が跳ねるのも構わずひた走る。
マネージャーの仕事は意外にハードだ。特に太陽が過酷に照りつける夏場は、選手の体調管理にいっそう気を配らなければならない。体内に吸収されやすいスポーツドリンクやタオルを用意し、部員のジャージやユニフォームもこまめに替えさせ、洗濯をする。タイムを計り、記録し、それらのデータを整理することも重要だ。
遅れるわけには行かなかった。今日は大会前の大事な選考会だ。自分が試されるわけでもないのに緊張して眠れずにこんな事態を招いてしまったことが悔しい。
「榊、陸上部のエースだかなんだか知らんが、学業を疎かにしてもらっては困るで」
一週間前の事だった。練習の疲れが出たのだろう、授業中居眠りしていた部員の榊卓真に、虫の居所が悪かったらしい数学教師は、八つ当たりのように膨大な課題を課した。
春に腿を痛め、春の大会に出場することが叶わなかった彼は、今季の大会の為に根気よくリハビリを続け、先日通常の練習に復帰したばかりだった。
事情を知る何人かは教師に抗議しようとしたが、卓真は落ち込みながらもおとなしく受け入れた。
「陸上の所為で成績落としたとか言われたないねん」
安奈が心配して声をかけると、彼は苦笑しながらそう言って課題に取り組んだ。お世辞にも勉強ができるとは言いがたい、本当なら寝る間さえ惜しんでトレーニングに励みたいだろうに、彼は机に噛り付いて頭を掻きながら数字と睨めっこすることを選んだのだ。
卓真は一年生の頃からそうだった。不器用でよく問題を起こしたが、呆れるほどにまっすぐで嘘がつけない性格なのだ。安奈はそんな彼を放っておけず、ついつい手を差し伸べてしまう。マネージャーなんてことをしているからには、元々人をサポートすることが好きなのだ。卓真に世話を焼いてしまうのもその延長だろうと考えていたのだが、どうやらそうではないということに最近気づいた。
「必ず出場する。安奈が応援してくれるんやったら、どこまでだって行ける」
茜が射す教室の隅で告白紛いなことを言われた。彼を強く意識させられた瞬間にわかった。
広がる青に包まれ、草原を走る彼の姿が見える。汗を散らしながら躍動する、しなやかで美しいフォーム。疾風のように安奈の目前に迫り、駆け抜けていった。思わず振り返れば、そこは元の教室。
卓真は返事を催促しなかった。否、はっきり告げられたわけではないのだ。
(言おう、私から。大会が終わったら──)
彼が誰よりも先にゴールする瞬間を眼に焼き付けてから。
安奈は自分に誓い、祈りながら彼を見守ってきた。
アスリートは孤独だ。特にリレーなどの団体競技でもない限り、陸上選手は自分ひとりで戦う。鏡張りの部屋で大勢の自分と向き合うように。
安奈は駅を目指しながら、共に戦うことができない、ただ見ていることしかできない自分の立場をはじめて歯痒いと思った。せめて自分も部員なら、その苦しみを共有できたかもしれない──一瞬弱気になって、すぐにそんな考えを打ち消す。
同じ立場ではないからこそ、彼の力になれることもあるのだと思い直す。
あとひとつ角を曲がれば駅だ、という時、場違いなほどゆったりとしたメロディが流れた。携帯の着信だ。安奈は焦りながら鞄に手を突っ込んだ。
「はいっ、安奈です!」
あまりに急いでいて、相手を確認せずに出てしまった。相手は一瞬息を呑んだが、すぐに用件を切り出した。
「安奈、今どこにおる!?」
「え、卓真くん?……駅前だけど?」
「じゃあ、西口のほうに来てや!」
「西口?どうして……」
「いいから、早う!」
卓真の声色は、心底困惑したような響きだった。安奈が訝りながらも西口に回ると、置き自転車が連なる歩道の向こうに、手招きする卓真が見えた。そこは古びたスナックが軒を連ねる、昼間はてんで人気のない路地裏だった。
「卓真くん、どうしてこんなところに……え?」
「遅刻しそうやって、近道したんや。したら、こんなん、おって」
視線で示されなくとも、路地に入り込んだ瞬間にそれに眼が釘付けになった。いや、正確には──彼、だろう。
「息、してるの?」
「知らん」
「確かめなさいよ」
「死体かも知れんのに触れん!」
その少年は膝を抱え、蹲るような格好で倒れていた。騒いでいてもぴくりとも動かず、顔色は死人のように暗かった。ちょうどこれと同じ格好を、安奈は歴史の教科書で見たことがある。大昔の埋葬方法で、ちょうど人間の胎児が子宮にいるときのような姿勢──アレは確か、屈葬といった筈だ。
歴史だけはまじめに聞いている卓真も同じことを連想したらしい。彼の指先が少しだけ震えているのを見なかったことにして、安奈は恐る恐る少年に手を伸ばした。
「触ったらあかん!!」
途端に卓真は安奈の腕を引く。
「だって、このままにしているわけにも」
「けっ、警察や、警察!下手に動かさんでプロに任せ……ひい!?」
言葉の途中で卓真の顔が引きつったのは、死体が動いて彼の脚を掴んだからだ。
「何だ、生きてるじゃない。──大丈夫?あなた気絶してたみたいだけど……」
安奈がほっと安堵して呼びかけると、少年はぼんやりとした瞳を向け、そして擦れた声で尋ねた。
「誰……?」