ぐらん・ぎにょーる
ひとでなし
いったい、ひとでなしは誰なのだろう。忘れた私が、忘れなかった君か。
数ヶ月前に嵐の中船から落ち海で溺れたが奇跡的に岸に流れつき助かった私が道を歩いていると、突然後ろから鈴を転がすかのような美しい声で私の名前が呼ばれた。
私が振り向くとそこには、銀糸で刺繍された蜘蛛の巣柄の黒い大振袖にだらり帯を締めた人形のように綺麗ではあるが、私とは全く初対面の美少女と、ぽっくりを履いた美少女のを支えるように右手を捧げ持った白い背広を着た黒目がちの切れ長の目に人のよさそうな笑みを浮かべた細身の優男が立っていた。
まるで、絵画から抜け出たような二人組。何かの白昼夢のような気すらする。
美少女は『聖玲』と名前を名乗ると非常に親しげに私に自分の家まで来て欲しいと強請った。私は断ろうとと口を開いたが、美少女の期待をするような潤んだような瞳に負けて思わず頷いて同行する事を了承してしまう。そう、その時は何故か了承しなければいけないような気がしたのである。
私が了承すると玲と名乗った美少女は花が綻ぶかのような笑みを浮かべた。とろりとした笑み。その笑みを見ただけで、私は心底了承してよかったと思う。美少女は、ではこちらへと言うとくるりと背を向けて私を先導する。私は熱にでも浮かされたように美少女と優男の後を追った。小道が入り組んだまるで迷路のような道をぐるぐると歩く。
少女の揶揄するようなくすくすと笑う声が私を悪夢へと連れて行くかのようだった。石畳の路地を通り抜けると、そこはすっかり見知らぬ町。見知らぬ町に私は入り込んでいた。
少女と優男は街の奥へ奥へと私を誘う。街の奥には、古色蒼然とした建物。入り口の柱に『異人館』と書かれたプレートがはめ込まれていた。
古風な昇降機に乗って五階に上がり、和洋折衷の部屋に通される。部屋にはお仕着せのメイドの格好をした少女がお茶の用意をしていた。玲と名乗った美少女とは、また雰囲気の違った可愛い少女。
少女は私を見て少し淋しげな笑みを浮かべた。どこかで会ったような気もしないでもないが、定かではない。私が勧められた席に座ると、メイド姿の少女が無言で黒い液体の入った珈琲茶碗を置いてくれた。
暫く世間話をした後、美少女は小首を傾げながら私に今度ご結婚されるそうですねと言った。確かに私は近々結婚する事になっている。しかし何故、初対面の筈の少女はその事を知っているのだろうか。私にはワケが解らなかった。
戸惑っている私をよそに、美少女は手慰みにテーブルに飾られた花瓶に挿された紅い薔薇を手に取ると、下を向いて花弁を一枚一枚毟り始めた。少女の横顔の線もうっとりするくらい美しい。続けて美少女は、奥様になられる方は貴方が海で溺れた際に海岸で見つけられた旧家のお嬢様だそうですねと言った。
それが何かと私が応えると、美少女は花弁を毟る手を休め私の顔を見つめた。少女に見つめられて私の胸は少し高鳴る。そして、ゆっくりとした口調で美少女は言う。貴方は奇跡的に助かったそうですけど、何故助かったがご存知ですかと。唇には薄い笑みが浮かんでいた。私は運が良かったからじゃないかなと軽く答える。
実は私自身、あの状況で何故助かったのか良く覚えていない。覚えているのは、私を励ます美しい歌うような声。私は妻になる女性の声だと思い込んでいたが、今になって思い返すとあの声は妻になる女性とは違っていたような気がしなくもない。
美少女は目を伏せて、やはり何も覚えていないのですねと言う。美少女の唇には端を持ち上げるような奇妙な笑み。
一体、私は何を忘れてしまったのだろうか。私が忘れてしまった事を美少女は知っているのだろか。少女に問い返そうと顔をあげた私の胸をメイドの少女が持っていたナイフで突き刺した。色とりどりの宝石で飾られた美しいナイフ。悲しげな顔をしている少女。目の前が少しずつ暗くなる。少女は真珠のような涙をぽろぽろ流しながら私を見つめていた。
ナイフで刺された私は気が遠くなりながら、足元から溶けているような感じがしてたまらなかった。それにしても、どこかで見たような少女の顔。
ナイフを持ったまま私を見下ろす少女の口が、ひとでなしと私を詰った。この時になって、ようやく私は嵐の中で私を岸辺に連れて行ってくれた下半身が魚の少女の事を思い出したのであった。ああ、そういえば、私は海の底から助けて貰う代わりに少女を迎えに行く事を約束した事を思い出した。そして、足元から私は躯が全て溶けて泡となり真珠となり、こうして恐ろしくあっさりとこの世とさよならしたのである。ひとでなしは、私。
作品名:ぐらん・ぎにょーる 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙