ぐらん・ぎにょーる
白雪の夢
鏡よ鏡、鏡さん。この夜で一番美しいのは誰?
歌声が聞こえる。暗くて黒い森の中には、お屋敷が一軒建っている。歌声、美しい歌声がする。銀の糸と金の糸を寄り合わせたような美しいセイレーンの声。そして、森の中は嵐となる。お屋敷の扉を叩く音。どうやら、森の中で嵐に遭難した誰かが避難してきたらしい。どんどん音が激しくなる。雷鳴、雷鳴、雷鳴がする。夕方から降り始めた雨は夜になるにつれて嵐となっていた。
森の中のお菓子の家。
清廉潔白事務所所員である鬼堂篁は、森の中の怪奇でお化け屋敷のようなお屋敷の重厚な扉が開かれたことに安堵をしていた。濡れたネクタイを少し緩める。ネクタイだけではなく、灰色の絵に描いたマフィアみたいな背広もすでにびしょ濡れであった。こんな時に嵐に遭遇するなんてそうそうない経験である。だいたい森へ来るつもりならば、前もって天気予報位見てくるべきである。どうやら、彼女はいい加減なところがあるらしい。
開かれる扉。扉の影から現れたのは、白雪姫の魔女の老婆もとい、振り柚姿の可憐な少女だった。紅い椿をあしらった黒い着物に真紅の半襟と帯がみずみずしく可憐な少女には良く似合っている。それにしても、そうそう人も来ないようなこんな山奥にこんな可憐な少女が住んでいるとは誰が思うだろう。雪のように白い肌、血の如く紅い唇、そして黒檀のように黒い髪の可憐な少女。御前のようだなと篁は少し思う。少女は篁を見ると小首を傾げてにっこりと笑った。
屋敷の中には大きな姿見が一枚。
「それは災難でしたわね」
少女は応接間でお茶の用意をしながらころころと笑って篁に向かって言った。少女の家はなかなか資産家らしく家具から内装にいたるまで豪奢な作りだった。白雪と名秉った少女の話から聞いてみると、この屋敷に少女は七人の兄と住んでいるらしい。しかし、今は兄達は留守と見えこの屋敷には少女しかいないらしい。それにしても、篁が女性とは言え何も疑うこともなしにあっさりと他人を屋敷に入れるとは無邪気と言うか警戒心の欠片もない無防備な少女である。
「全くさ。こちらは降るとは思ってなくて、急に降られたものだから、これ幸いとお屋敷に避難させて貰ったと言うわけ。煙草までびしょ濡れだぜ」
篁は屋敷に通されるとすぐに風呂を借り、着替えを済ませて濡れた躯をさっぱりとしていた。軽く舌打ちし、眉を顰めながら煙草が全て目茶苦茶になっていることを確認して、濡れてしまった煙草の箱をゴミ箱の中に放った。箱は、放物線を描いてゴミ箱の中に見事ストライクする。
「おねえさまは、こんな何もない山奥に何をしに来ましたの?」
白雪は天使のような笑顔を浮かべて無邪気に篁に尋ねる。篁の事を警戒して尋ねたと言うより、純粋に不思議で堪らないと言う様子である。確かに、こんな山奥に灰色のスーツに黒いシャツそして紅いネクタイを締めた姿で来るようなものではない。しかし、篁は澄ましたものだった。
「ヒトを探しているのさ。間抜けな男でね、綺麗な婚約者を置いて消えちまったんだ。煙のようにな]
篁はこんな男だよと言って白雪に写真を見せた。写真の中では健康そうな若い男が笑っていた。この写真は二、三日前に清廉潔白探偵事務所に依頼に来た男の婚約者から渡されたもの。男は少し前にこの森に行くと言ったまま、行方不明になっていた。
「おねえさまの婚約者さま?」
白雪は写真を見ながら小首を傾げる。可愛らしい動作。恐らく、世間一般の普通の男なら彼女に目が釘付けになるだろう。白雪の無邪気すぎる問いに、篁は疲れたような笑みを浮かべ、次の瞬間爆笑をした。屋敷に広がる笑い声。
「いんや、違う。アタシは、その麗しき婚約者から男を探してくれと頼まれた探偵さ。この山の麓の宿までは足取りが取れたんだけど、そこから先がさっぱりさ。で、お嬢ちゃん、この男に見覚えがない?」
篁は奇妙な笑みを浮かべて白雪を見つめた。白雪が何か知っているような口ぶりである。しかし、白雪には思い当たるものが全くないらしい、それこそ驚いたかのように目を見開いて罪のない笑みでゆっくりとした口調で答えた。
「いいえ、知りませんわ。だって、その方は王子様じゃありませんもの」
「……王子様?」
白雪のおかしな答えに、篁は訝しげに眉を顰める。まさか行方不明の男の事を尋ねたら、いきなり王子様ではないから知らないと返答が来るとは誰が予想をするだろうか。何かがおかしかった。
「私は、いつか王子様が迎えに来るのをここでずっと待っているのです。お兄様たちと一緒にお待ちしているのです」
白雪はうっとりした眼差しで立ち上がると、部屋に置かれているグランドピアノの蓋を開け『いつか王子さまが』を歌いだした。この美少女には結構、自己陶酔の気があるらしい。
「そして、その日の為に硝子の柩、紅い毒林檎にコルセット、そして櫛も用意していますの。あと、足りないのは魔女だけですわ」
美少女の天使の笑み。自分で全部小道具を用意して王子様を待っている白雪姫と言うのはそうそういないに違いない。それにしても、彼女はいかにして邪悪な魔女と王子様を調達するつもりなのであろう。その方法を聞いてみたいような気がする。因みに某ネズミの国の魔女の死にざまは、結構間抜けである。やはり、真っ赤に焼けた靴を履いて、死ぬまで踊りつづける末路の方が残酷ではあるが、良いのはないだろうか。
「そりゃ、また凄いな」
篁は一瞬天を仰いで溜息をついた。物凄くやる気のなさそうな声である。足元にはいつの間にか準備された包み。
「そして、いつの日か魔女がやって来て、真っ赤な毒林檎を食べて私は死ぬのです。でも、大丈夫。いつか、美しい王子様のキスで目覚めるのですわ」
白雪はピアノを弾きながらうっとりとした声音で言った。すっかり白昼夢の中に入っているらしい。色々と扱いに困る少女である。
「白雪姫は、柩を持ち替える途中に、家来がコケて柩が揺れたことで喉から林檎の欠片が飛び出て目覚めるんだぜ。キスで起きるのは眠りの森の美女。そういや、御前に前に聞いた話なんだが、元々の話の白雪姫の魔女は実の母親でさ、しかも七人の小人の情婦だったらしいぜ。ただ、あんまり生々しい話だったんで、継母になり七人の小人とは仲良く暮らしましたになったらしいな」
かたんとピアノの音が止む。
「この屋敷の部屋の名前は、月曜日から日曜日と付けられていて内装も全て違う。内装は、どこぞのお城や中国風の部屋やらあって、生活をする部屋と言うより、娼館みたいってのがお似合いな部屋だよな。その上、お嬢ちゃん、アンタの振る舞い言葉遺いは、いかにも可憐な少女すぎる。自然にそうなったと言うより、そういう風に育てられたって感じだぜ」
篁の口の端には、いつの間にか手品のように火のついた煙草が銜えられていた。せめて、煙草を吸っても良いかと聞いて貰いたいものである。煙草の白い煙がアールデコの螺旋になってゆらゆらと天井を昇っていく。
「何が仰りたいの?」
白雪がくるりと篁の方に躯の向きを変える。美しくて可憐な少女。無邪気な笑みのまま白雪は篁を見つめる。篁は暫く白雪を見つめた後、視線を逸らせた。唇には薄い笑み。足元に置かれた包みがかたかたと嗚った。
作品名:ぐらん・ぎにょーる 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙