ホロ
神社の裏で、ホロが陽なたぼっこをしていた。
そこは日陰の全くない、夏の直射日光がぎらぎらと照りつけるような雑草地帯だった。ホロは二メートル程の巨体をそこに横たえ、手足を四方に投げ出し、文字通り『大の字』で夏の陽光を一身に浴びていた。水色半透明なゼリーのような身体に衣服の類を一切身につけておらず、それでいて全身薄汚れていた。濁った瑞々しさ、まるで秋のプールの水面のようだ。
ユリは本殿の陰に隠れ、陽なたぼっこに興じるホロをおぞましいものを見るかのような眼差しで見つめた。ホロを発見するのは人生で何度目だろうか。四度目、五度目、それくらいか。
ユリにはどうしても受け入れがたいことが三つある。
『家族』と『死』と『ホロ』だ。そのうちの一つが視線の先にある。とても嫌な物を見てしまった。
ユリがため息を吐いてその場を離れようとすると、後ろで地響きのようなうめき声が聞こえた。恐る恐る振り返る。
ホロが巨体を半分起こして背伸びをしていた。それから首を上へ上へとぐんぐん伸ばし、キリンのように長くしてやっと限界がきたのか、ゴムの反動のように伸びきった首を一気に引き戻した。それから右腕、左腕、右足と同じように伸ばしたり縮めたりの運動を繰り返し始めた。
ホロのゼリー状の身体に間接や骨格という概念はない。それだけに、ホロは気を緩めると途端にアイスのようにドロドロと溶けてしまうのだ。だから普段からあのようにホロ特有の準備運動を欠かさない。
突然、ホロが首をぐるりと百八十度回転させて私の方へと顔を向けた。はにわのような三つの空洞が私を捉える。
ユリは小さく悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。
ホロはのっそりと立ち上がり、顔の位置をそのままに、首から下をこちらへ回した。といっても、全身つるつるの身体なのでどちらが前でどちらが後ろなのかは定かではないのだが。
ホロがどしんどしんとユリへと歩みを進めてきた。ユリは尻もちをついたまま、臀部に砂をなすり付けながら後ずさる。
やがてホロはあと三メートルというところまでユリに近づき、背筋を猫みたいに丸めて彼女の顔を覗き込んできた。
――何を怖がっているのさ、おいらはホロだぜ。
地を震わせるような低い声だった。ホロの声帯は極端だ。低いか高いかの両極端。ユリがホロを嫌いな要因の一つである。あのまん丸い空洞からひねり出される超音波がユリの鼓膜を不快に叩く。
ユリは口を閉ざしたままホロを見上げた。ホロは間抜けなつるつる頭をぷるんと傾げる。
――何を黙っているんだい。もしかしてホロを見るのは初めてかね。ま、ここは田舎町だから仕方ないのか。しかし今どきおいらたちなんて、見たことなくてもテレビや雑誌なんかで知ってるはずだろうよ。
ユリは唇を震わせたまま、ホロの二つの空洞を見つめた。
「これ以上近寄らないで。あたしはあなたが嫌いなの」
――そんなこと言うなよお嬢さん。おいらと遊ぼうぜ。
ユリは不機嫌そうに眉をひそめた。
「遊ぶって、なにして?」
――ひまわりだ。知ってるだろう、ひまわり。
「知らない。なによ、ひまわりって」
――驚いた。今どきの子供はひまわりも知らんのだな。
「あたしは子供じゃないわよ。もう中学一年生だもの」
――中学一年生は立派な子供だろうよ。
「うるさい。やっぱりあたし、あなたのこと嫌い」
ユリはぷいとそっぽを向いた。それと同時に、内心彼女は安心していた。このホロは自分に危害を加えるつもりはないらしい。だからといって好きになれるわけもないのだが。
ホロは困ったように腹のあたりを掻き、それから辺りを見回した。足元に木の枝が落ちていたので、それを手に取った。手に取る、と言ってもホロの手に指は無く、先端はミミズのように丸っこいので、木の枝のように細い物は肌に直接吸い付かせて拾うしかない。
ホロはのそりのそりと本殿の裏側へ戻り、木の枝で地面に何かを描き始めた。やがて、ホロはその水色半透明な手を止める。
――困った。そこら中に雑草が生えていてうまく地面に絵が描けないぞ。
ホロは首だけ回転させて後方のユリを見る。
――なぁお嬢さん。雑草を抜くのを手伝ってはくれまいか。これでは遊びが始められん。
ユリは立ち往生したままのホロをしたり顔で睨め付けた。
「どうしてあたしがそんな面倒臭いことしなくちゃならないのよ。そもそもあたしはあんたなんかと遊ぶ気はないのよ」
――お前さん、暇だろう。夏休みだろう。
「中学生の夏休みは忙しいの。あんたなんかと違ってね」
――じゃあ、どうしてこんな所へ来たんだい。こんな田舎町の更に片隅の辺鄙な神社に。しかもこんな暑い中で。
ユリは口を噤んだ。うまい言い訳が思いつかない。ホロは彼女の返答を待っているようで、二人の間を沈黙が包んだ。雑草地帯の奥の雑木林から、蝉のけたたましい鳴き声が痛いほど聞こえてくる。
「じ、自由研究」
――何の自由研究だい。おいらたちホロの研究かい。
「ぶん殴るわよ」
――おいらにパンチは効かねえよ。
ホロは自慢げに自らの柔らかい腹を叩いてみせた。ユリはこみ上げてくる苛立ちを喉元すんでのところで抑えながら、後ろを振り向いて歩き出した。
――どこへ行くんだい。
「帰る。馬鹿ホロなんかに付き合ってらんない」
どんどん進んでいくユリの背中を、ホロが慌てて追う。どしりどしりと、歩くたびに柔らかい身体が左右に滑稽に揺れた。
本殿の表側につくと、ユリは賽銭箱に一瞥もくれず真っ直ぐ本殿の階段を上がっていった。階段を上ると古びた戸がある。本来なら施錠されているはずだが、壊れた南京錠がユリの足元に転がっていた。彼女は迷わず戸を開扉する。
開けた瞬間、中の湿気と埃が、充満した煙のように開け放たれた。本殿内部は内陣と外陣に別れており、内陣には御神体であるひび割れた鏡が収められていた。内陣の左右には小さい狛犬が御神体を守るように配置されている。
外陣の狭いスペースにはユリのリュックサックとその中身が乱雑に置かれていた。一部、埃が掃除されていて、ユリはそこに腰を下ろした。尻につく床板の感覚が痛かったのか、再度腰を上げ、下にウサギ柄のクッションを敷きまた座り直す。
――ここって、お前さんの家だったのかい?
ホロが外から本殿内部を覗き込みながら尋ねた。ユリはリュックサックから漫画を取り出し適当なページを開きながら言う。
「そうよ」
――うそつけ。この不法侵入者め。
ユリはふんと鼻を鳴らし、漫画へ集中を向けた。
「あんたは絶対ここには入ってこないでよね」
翌日の朝、御神体である鏡を見ながら髪型をセットしたユリは、神社の裏側へと足を運んだ。
昨日と同じように、そこにはホロがいた。ホロは巨体を屈めてひたすら雑草をむしりとっていた。よく見ると、神社の裏のスペースにところ狭しと生い茂った雑草たちは、学校のグラウンドの一面のように肌色の地面を晒していた。
ホロはユリの気配に気づくと、砂だらけの顔を彼女を方へ向けた。
――おはようお嬢さん。草むしりが楽しくて一晩中やっていたらこんなんなっちまったよ。
「この暑い中、精が出るわね」
そこは日陰の全くない、夏の直射日光がぎらぎらと照りつけるような雑草地帯だった。ホロは二メートル程の巨体をそこに横たえ、手足を四方に投げ出し、文字通り『大の字』で夏の陽光を一身に浴びていた。水色半透明なゼリーのような身体に衣服の類を一切身につけておらず、それでいて全身薄汚れていた。濁った瑞々しさ、まるで秋のプールの水面のようだ。
ユリは本殿の陰に隠れ、陽なたぼっこに興じるホロをおぞましいものを見るかのような眼差しで見つめた。ホロを発見するのは人生で何度目だろうか。四度目、五度目、それくらいか。
ユリにはどうしても受け入れがたいことが三つある。
『家族』と『死』と『ホロ』だ。そのうちの一つが視線の先にある。とても嫌な物を見てしまった。
ユリがため息を吐いてその場を離れようとすると、後ろで地響きのようなうめき声が聞こえた。恐る恐る振り返る。
ホロが巨体を半分起こして背伸びをしていた。それから首を上へ上へとぐんぐん伸ばし、キリンのように長くしてやっと限界がきたのか、ゴムの反動のように伸びきった首を一気に引き戻した。それから右腕、左腕、右足と同じように伸ばしたり縮めたりの運動を繰り返し始めた。
ホロのゼリー状の身体に間接や骨格という概念はない。それだけに、ホロは気を緩めると途端にアイスのようにドロドロと溶けてしまうのだ。だから普段からあのようにホロ特有の準備運動を欠かさない。
突然、ホロが首をぐるりと百八十度回転させて私の方へと顔を向けた。はにわのような三つの空洞が私を捉える。
ユリは小さく悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。
ホロはのっそりと立ち上がり、顔の位置をそのままに、首から下をこちらへ回した。といっても、全身つるつるの身体なのでどちらが前でどちらが後ろなのかは定かではないのだが。
ホロがどしんどしんとユリへと歩みを進めてきた。ユリは尻もちをついたまま、臀部に砂をなすり付けながら後ずさる。
やがてホロはあと三メートルというところまでユリに近づき、背筋を猫みたいに丸めて彼女の顔を覗き込んできた。
――何を怖がっているのさ、おいらはホロだぜ。
地を震わせるような低い声だった。ホロの声帯は極端だ。低いか高いかの両極端。ユリがホロを嫌いな要因の一つである。あのまん丸い空洞からひねり出される超音波がユリの鼓膜を不快に叩く。
ユリは口を閉ざしたままホロを見上げた。ホロは間抜けなつるつる頭をぷるんと傾げる。
――何を黙っているんだい。もしかしてホロを見るのは初めてかね。ま、ここは田舎町だから仕方ないのか。しかし今どきおいらたちなんて、見たことなくてもテレビや雑誌なんかで知ってるはずだろうよ。
ユリは唇を震わせたまま、ホロの二つの空洞を見つめた。
「これ以上近寄らないで。あたしはあなたが嫌いなの」
――そんなこと言うなよお嬢さん。おいらと遊ぼうぜ。
ユリは不機嫌そうに眉をひそめた。
「遊ぶって、なにして?」
――ひまわりだ。知ってるだろう、ひまわり。
「知らない。なによ、ひまわりって」
――驚いた。今どきの子供はひまわりも知らんのだな。
「あたしは子供じゃないわよ。もう中学一年生だもの」
――中学一年生は立派な子供だろうよ。
「うるさい。やっぱりあたし、あなたのこと嫌い」
ユリはぷいとそっぽを向いた。それと同時に、内心彼女は安心していた。このホロは自分に危害を加えるつもりはないらしい。だからといって好きになれるわけもないのだが。
ホロは困ったように腹のあたりを掻き、それから辺りを見回した。足元に木の枝が落ちていたので、それを手に取った。手に取る、と言ってもホロの手に指は無く、先端はミミズのように丸っこいので、木の枝のように細い物は肌に直接吸い付かせて拾うしかない。
ホロはのそりのそりと本殿の裏側へ戻り、木の枝で地面に何かを描き始めた。やがて、ホロはその水色半透明な手を止める。
――困った。そこら中に雑草が生えていてうまく地面に絵が描けないぞ。
ホロは首だけ回転させて後方のユリを見る。
――なぁお嬢さん。雑草を抜くのを手伝ってはくれまいか。これでは遊びが始められん。
ユリは立ち往生したままのホロをしたり顔で睨め付けた。
「どうしてあたしがそんな面倒臭いことしなくちゃならないのよ。そもそもあたしはあんたなんかと遊ぶ気はないのよ」
――お前さん、暇だろう。夏休みだろう。
「中学生の夏休みは忙しいの。あんたなんかと違ってね」
――じゃあ、どうしてこんな所へ来たんだい。こんな田舎町の更に片隅の辺鄙な神社に。しかもこんな暑い中で。
ユリは口を噤んだ。うまい言い訳が思いつかない。ホロは彼女の返答を待っているようで、二人の間を沈黙が包んだ。雑草地帯の奥の雑木林から、蝉のけたたましい鳴き声が痛いほど聞こえてくる。
「じ、自由研究」
――何の自由研究だい。おいらたちホロの研究かい。
「ぶん殴るわよ」
――おいらにパンチは効かねえよ。
ホロは自慢げに自らの柔らかい腹を叩いてみせた。ユリはこみ上げてくる苛立ちを喉元すんでのところで抑えながら、後ろを振り向いて歩き出した。
――どこへ行くんだい。
「帰る。馬鹿ホロなんかに付き合ってらんない」
どんどん進んでいくユリの背中を、ホロが慌てて追う。どしりどしりと、歩くたびに柔らかい身体が左右に滑稽に揺れた。
本殿の表側につくと、ユリは賽銭箱に一瞥もくれず真っ直ぐ本殿の階段を上がっていった。階段を上ると古びた戸がある。本来なら施錠されているはずだが、壊れた南京錠がユリの足元に転がっていた。彼女は迷わず戸を開扉する。
開けた瞬間、中の湿気と埃が、充満した煙のように開け放たれた。本殿内部は内陣と外陣に別れており、内陣には御神体であるひび割れた鏡が収められていた。内陣の左右には小さい狛犬が御神体を守るように配置されている。
外陣の狭いスペースにはユリのリュックサックとその中身が乱雑に置かれていた。一部、埃が掃除されていて、ユリはそこに腰を下ろした。尻につく床板の感覚が痛かったのか、再度腰を上げ、下にウサギ柄のクッションを敷きまた座り直す。
――ここって、お前さんの家だったのかい?
ホロが外から本殿内部を覗き込みながら尋ねた。ユリはリュックサックから漫画を取り出し適当なページを開きながら言う。
「そうよ」
――うそつけ。この不法侵入者め。
ユリはふんと鼻を鳴らし、漫画へ集中を向けた。
「あんたは絶対ここには入ってこないでよね」
翌日の朝、御神体である鏡を見ながら髪型をセットしたユリは、神社の裏側へと足を運んだ。
昨日と同じように、そこにはホロがいた。ホロは巨体を屈めてひたすら雑草をむしりとっていた。よく見ると、神社の裏のスペースにところ狭しと生い茂った雑草たちは、学校のグラウンドの一面のように肌色の地面を晒していた。
ホロはユリの気配に気づくと、砂だらけの顔を彼女を方へ向けた。
――おはようお嬢さん。草むしりが楽しくて一晩中やっていたらこんなんなっちまったよ。
「この暑い中、精が出るわね」