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「月傾く淡海」  第三章 月の淡海

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 しばらく銅鐸の音に聞き惚れていた倭文は、やがてその音色に妙な音が混じっているのに気づいた。
 微かだが、遠くから、何か地を踏み鳴らすような音が聞こえて来るのだ。
 倭文は振り返って二人の方を見た。
 深海は、怪訝な表情をしている。真手王は、緊張を浮かべた瞳で里の方を見据えていた。
「ねえ、今、何か……」
 倭文が言いかけた時、真手王が再び立ち上がった。
「――止めよ!」
 鋭い声で一括する。
 途端に楽が止み、代わって血相を変えた供部が彼らの前に飛び込んできた。
「た、大変でございます、真手王さま! どこかの軍が、この里を取り囲んでおります!」
「――なんだと!?」
 真手王は形相を変える。和やかだった宴の雰囲気が一変した。
「奇襲か! この息長に対し、いい度胸だ。一体どこの軍だ! 返り討ちにしてやるっ」
 突如激しく息巻いたその姿に、常とは違う真手王の王将としての苛烈な顔が現れていた。
「い、いえ、それが……どうも様子が変で……」
 伝令の供部は、困惑したように言葉を濁す。
「どうした、はっきり言え!」
「そ、それが、ものものしい軍は里をとりまいているのですが、一向にこちら側に対して攻撃をしかける様子はなく……将と名乗る男が言うには、真手王さまにお話したい事があると……」
「なんだと?
 真手王は剣呑な瞳のまま、怪訝な表情になった。
 腕を組んで暫く黙考すると、真手王は深海に問う。
「――どう思う?」
「……僕は、その人の話を聞いてみたほうがいいと思うけど」
 深海は真手王を見上げ、毅然とした口調で言った。
「――わかった。連れてこい」
 すかさず供部に命じる真手王を見て、倭文は驚愕した。
 いくら親しい義弟とはいえ、こんな緊急の重大事を、他人の一言で決してしまうなんて、倭文の――葛城の常識では、理解できないことだった。
(なんなの、この二人は……)
 倭文は半ば呆れながら、尋常でない事の成り行きを見守る。
 やがて、緊迫する空気の中に、息長の供部に連れられた短甲姿の武人が現れた。
「――貴公か。この軍を、我が息長の領に差し向けた将は」
 真手王は武人を見下ろしながら、敵愾心を込めて問いかけた。
「――いかにも」
 武人は、顔を伏せたまま短く返答する。
「敵意あってのことか。ならば、この場で貴公の首をはねる」
「いいえ、決して。息長の地を侵す意図ではございません」
 武人は臆する様子もなく、丁寧に言葉を返した。
「ならば、汝は何者か! 速やかに答えよ!」
 真手王が鋭く命じる。その言葉を受け、武人が初めてその顔を上げた。
(あれは……っ)
 松明に照らされた武人の顔を見た途端、倭文は喫驚し、反射的に領巾(ひれ)で己の顔を隠した。
「我は、物部(もののべ)の大連、荒鹿火(あらかい)と申すもの。息長への突然の非礼、幾重にもお詫びいたす」
「――物部の大連(おおむらじ)?」
 武人の名を聞いた真手王は、より不快そうに眉をひそめた。
「大和朝廷の大将軍が、何ゆえに兵を率いて息長まで来るか。これは、大王の命であるというのか?」
「……宮殿には、ただいま大王はおられませぬ」
「――何?」
「さればこそ、我ら軍を率いてこの淡海までまかりこしました。我が主となられる方を求めて」
「汝の……主だと?」
 真手王は、ふと声音に猜疑を混ぜて反芻した。
 ただ居丈高だったそれまでとは、少し様子が違う。
「こちらの館に、三尾の亡き彦主人王(ひこうしおう)の御子がおられると聞いて参りました。どうか真手王どの、我らとお引き合わせ願いたい……」
「それは……っ」
 真手王は、途端に口ごもる。
 目に苛ついた光を浮かべた彼が、明らかに狼狽しているのが見てとれた。
「真手王どの、どうか!」
 真手王の威勢が弱まったのを見て、荒鹿火は更に迫った。
 その時、緊迫する人々の中で、それまで静かに成り行きを見守っていた深海が、黙って立ち上がった。 ゆっくりと歩を運び、真手王の隣に並び立つ。
「……僕です」
「――深海っ!」
 止めようとする真手王を制し、深海は片膝をついて荒鹿火を見下ろした。
「僕が、彦主人王と振媛の息子です」
 深海は、優しげに微笑みながら、穏やかに告げた。
「おお、では、あなたが……!」
 荒鹿火は、歓喜の瞳で深海を見上げる。
「あなたが、誉田別(ほむだわけ)の大王の裔(すえ)の御子であらせられるか……!」
(なんですって!?)
倭文は仰天し、思わず高杯を蹴飛ばして立ち上がった。倒れた高杯から、柿や梨が転がっていく。
 葛城の王姉と息長の青年王と大和の将軍は、それぞれ入り乱れた胸中のまま、やがて彼らの運命をかき乱すことになる一人の穏やかな青年の姿を、ただ言葉もなく見つめていた。


(第三章おわり 第四章へつづく)