ユメウリオトコ
───鷲掴みにされそうだ、と思った。
その予感めいたものには何の根拠もなかったが、彼の黒髪で作られたマッシュルームカットに紅葉の葉が空気をクッションにして、ふわりと乗った瞬間。これを理由に彼に触れられるかもしれない、等と邪まなことを考えた瞬間。しまわれていた感情が一気に、乱暴に、散らかされていくのがわかった。
「あ、あれ?ああ、紅葉か。そういやいっぱい落ちてるね」
彼は秋も終わりに近づいているというのに、やっとこの真っ赤な絨毯の存在に気がついたようだった。私が彼に触れられる理由は、彼の手によってあっさりと絨毯の一部となった。はぁ、と自然にため息がもれる。
「本当に外に出ないのね」
「うーん。だって必要がないからね」
「仕事は順調なの?」
「僕がここで暢気に紅葉を楽しんでいるということは・・・・・・まぁそういうことになるだろうね」
彼は私が買ってあげたカフェオレの缶をニットのカーディガンの袖越しに持ち、身震いした。全体的に白く、細く、骨ばっていて、いかにも体温の上がりにくそうな身体つきだった。灰色のジャージに白のVネックシャツ、ピンクのカーディガンという服装が彼をもっと華奢に、なよなよしく見せた。
彼、タケルは、最近売れ始めた少女漫画家である。世間には一応、女性作家で通しているみたいだが、タケルはいつかばれてしまうだろうと、あくまで中世的なキャラクターを保っていた。本人曰く、
「男性が女性の気持ちを100%理解するのは、一生無理」らしい。今回、初めて半年にわたる月刊誌の連載が終わったばかりで、タケルの顔には明らかに疲労の色が見え隠れしており、その白い肌をさらに白く、青くさせていた。そんなタケルの顔色を一番に心配しているだろう私は、タケルにとって、ただのお隣さんでしかない、という事実が妙に悲しく響いた。
「ごめんね、すごく久しぶりにみかけたから声をかけてみたけど、そんな状況だなんて知らなかった。顔色も悪いし、ゆっくり休んだ方が・・・・・・」
「いいんだ」
私の遠慮がちな言葉に被さるようにしてタケルが言った。
「見たかったところだから」
「紅葉を?」
「紅葉とか、空とか、カフェオレとか、・・・・・・道行くわんことか」
丁度その時、二人の目の前を毛並みのいいゴールデンレトリバーを連れたおじいさんが横切っていった。しばらくの沈黙。私は何回か瞬きしたあと、口を開いた。
「・・・・・・ねぇ、少女漫画家って、恋の話を書いてるのよね?」
「まぁ、全部とは言えないけど。ほぼそうだろうね」
「書いている人は、恋愛をしなくて、作品が書けるの?」
タケルは無造作に重なる紅葉を眺めたまま、自分のさらさらの前髪を何度も撫でた。
「うーん」
そうやって唸ったあと、また前髪を右手のひら全体で撫でる。左手は私たちが座る公園のベンチの淵をせわしなく握ったりひっかいたりしていた。
私はというと平静を装ってはいたものの、私のことも見たかったのでは?という小さな自惚れから勢いで口走ってしまったこの話題について、早くも後悔していた。そんな時、タケルが口を開いた。
「他の人はどうだか、しらない、けど」
それはとても小さな声で、彼のピンク色のちょっとアヒル口な唇に視線を集中させていないと聞き逃してしまいそうだった。
「僕は、大丈夫、かもしれない」
タケルは下唇を噛み、何回か目玉をきょろきょろさせたあと、またいつもどおりに戻った。いつでも寝起きのような、とろんとした目線を空に向けた。
「けど、夢と現実は違うからね。作品にリアルを求めるのはあまり好きじゃないんだ。リアルなものなんて、普通に生きてればいくらでも目にできる。僕が書きたいにはそーいうんじゃないから。もっと、もっと・・・・・・」
そう言うタケルの頭のてっぺんに紅葉が落ちた。
それは私のタケルへの思いや、先ほどまでの淡い期待に似ていた。
タケルと私はアパートに越してきた日が一緒で、お互い地方から上京してきたこともあり、すぐに仲良くなった。タケルは男としての下心が全く垣間見えず、私のタケルへの警戒心は出会った時からほとんどなかった。いつもどこか抜けていて、それでいて心が広かった。夜に突然風邪薬をもらいに行った時も、持っていないからと言ってわざわざ買いに行ってくれた。越してきたばかりの時だったので、ドラッグストアの場所がわからず、着いた頃にはもう閉店していて、代わりに近所のスーパーで、大量のスポーツドリンクとレトルトのおかゆを買ってきてくれた。それでも私はタケルにどきどきしなかったし、向こうにも特別な感情はないようだった。それが、タケルにとっての当たり前のようだった。改めて、所詮、お隣さんである私はタケルにとって何者でもなかったのだ、と思う。一度タケルに部屋に招かれた時も、甘い雰囲気など微塵もなく、私が気になっていた作家さんの画集を見させてもらい、二人でキムチ鍋をつついて解散、隣室に帰るや否や即刻眠りについたことを思い出した。ただ、そんな関係が居心地が良かった。向こうの仕事の邪魔などしたことがない。具体的なアピールもしていない。けれど、タケルの部屋へと繋がる壁を毎日眺めるだけで何だかうれしかった。頑張って執筆をしているんだろう、彼の姿を想像して、穏やかな気分になった。
私は気がついたらタケルを好きになっていた。それは身長が1センチ伸びたくらいの、微妙な変化で、私はその瞬間を全く覚えておらず、とても戸惑った。
少女に夢を売る男に、まんまと買わされた、そんな気分にさえなった。
今だって、この目の前の男の頭についている紅葉を取って、そのさらさらの髪をぐちゃぐちゃにして、自分の鼻をうずめたい、そんな風に思うのに。その妄想の最後に映るのは、タケルの「どうしたらいいのかわからない」といったような、困惑と嫌悪が入り混じったような表情だけだった。
「もっと、きれいなものが書きたいのね」
「きれい?きれいって、言うのかな」
「リアルの愛はとても汚いものだと思うよ、自分勝手な、欲求」
「違うよ、それは汚いんじゃないよ、僕は、僕の見ているリアルが書きたくないっていう意味で、もっと、僕が求めているようなそれを現実世界で持っている人がいると思うんだけど、でもそれは僕には書けないわけで…・・・」
「じゃあ、タケルのリアルは何?」
「え?」
「タケルの書きたくない、タケルのリアルって、どんなの?」
「それは・・・・・・言いたくない」
「一生そのままでいるの?」
「なんでそんなこと、真央に言わなきゃいけないの」
タケルは、あ、という顔をした。
私はつん、と鼻が痛くなるのがわかった。何、してるんだろう、素直にそう思った。
私は俯いてから隣に座るタケルを見た。タケルは必死に言葉を探しているようで、口を中途半端にパクパクさせていた。が、そのうち、その口の動きが止まり、大きなまん丸の目がもっとまん丸になった。私がタケルの頭の紅葉を取り、そのまま髪を撫でたからだった。
「苦しそう」
タケルが言った。
「顔」
どうやら、私の表情のことらしかった。私は少し笑ってから立ち上がった。
「なんかくだらないことで言い争いしちゃったね。初めてじゃない?」
その予感めいたものには何の根拠もなかったが、彼の黒髪で作られたマッシュルームカットに紅葉の葉が空気をクッションにして、ふわりと乗った瞬間。これを理由に彼に触れられるかもしれない、等と邪まなことを考えた瞬間。しまわれていた感情が一気に、乱暴に、散らかされていくのがわかった。
「あ、あれ?ああ、紅葉か。そういやいっぱい落ちてるね」
彼は秋も終わりに近づいているというのに、やっとこの真っ赤な絨毯の存在に気がついたようだった。私が彼に触れられる理由は、彼の手によってあっさりと絨毯の一部となった。はぁ、と自然にため息がもれる。
「本当に外に出ないのね」
「うーん。だって必要がないからね」
「仕事は順調なの?」
「僕がここで暢気に紅葉を楽しんでいるということは・・・・・・まぁそういうことになるだろうね」
彼は私が買ってあげたカフェオレの缶をニットのカーディガンの袖越しに持ち、身震いした。全体的に白く、細く、骨ばっていて、いかにも体温の上がりにくそうな身体つきだった。灰色のジャージに白のVネックシャツ、ピンクのカーディガンという服装が彼をもっと華奢に、なよなよしく見せた。
彼、タケルは、最近売れ始めた少女漫画家である。世間には一応、女性作家で通しているみたいだが、タケルはいつかばれてしまうだろうと、あくまで中世的なキャラクターを保っていた。本人曰く、
「男性が女性の気持ちを100%理解するのは、一生無理」らしい。今回、初めて半年にわたる月刊誌の連載が終わったばかりで、タケルの顔には明らかに疲労の色が見え隠れしており、その白い肌をさらに白く、青くさせていた。そんなタケルの顔色を一番に心配しているだろう私は、タケルにとって、ただのお隣さんでしかない、という事実が妙に悲しく響いた。
「ごめんね、すごく久しぶりにみかけたから声をかけてみたけど、そんな状況だなんて知らなかった。顔色も悪いし、ゆっくり休んだ方が・・・・・・」
「いいんだ」
私の遠慮がちな言葉に被さるようにしてタケルが言った。
「見たかったところだから」
「紅葉を?」
「紅葉とか、空とか、カフェオレとか、・・・・・・道行くわんことか」
丁度その時、二人の目の前を毛並みのいいゴールデンレトリバーを連れたおじいさんが横切っていった。しばらくの沈黙。私は何回か瞬きしたあと、口を開いた。
「・・・・・・ねぇ、少女漫画家って、恋の話を書いてるのよね?」
「まぁ、全部とは言えないけど。ほぼそうだろうね」
「書いている人は、恋愛をしなくて、作品が書けるの?」
タケルは無造作に重なる紅葉を眺めたまま、自分のさらさらの前髪を何度も撫でた。
「うーん」
そうやって唸ったあと、また前髪を右手のひら全体で撫でる。左手は私たちが座る公園のベンチの淵をせわしなく握ったりひっかいたりしていた。
私はというと平静を装ってはいたものの、私のことも見たかったのでは?という小さな自惚れから勢いで口走ってしまったこの話題について、早くも後悔していた。そんな時、タケルが口を開いた。
「他の人はどうだか、しらない、けど」
それはとても小さな声で、彼のピンク色のちょっとアヒル口な唇に視線を集中させていないと聞き逃してしまいそうだった。
「僕は、大丈夫、かもしれない」
タケルは下唇を噛み、何回か目玉をきょろきょろさせたあと、またいつもどおりに戻った。いつでも寝起きのような、とろんとした目線を空に向けた。
「けど、夢と現実は違うからね。作品にリアルを求めるのはあまり好きじゃないんだ。リアルなものなんて、普通に生きてればいくらでも目にできる。僕が書きたいにはそーいうんじゃないから。もっと、もっと・・・・・・」
そう言うタケルの頭のてっぺんに紅葉が落ちた。
それは私のタケルへの思いや、先ほどまでの淡い期待に似ていた。
タケルと私はアパートに越してきた日が一緒で、お互い地方から上京してきたこともあり、すぐに仲良くなった。タケルは男としての下心が全く垣間見えず、私のタケルへの警戒心は出会った時からほとんどなかった。いつもどこか抜けていて、それでいて心が広かった。夜に突然風邪薬をもらいに行った時も、持っていないからと言ってわざわざ買いに行ってくれた。越してきたばかりの時だったので、ドラッグストアの場所がわからず、着いた頃にはもう閉店していて、代わりに近所のスーパーで、大量のスポーツドリンクとレトルトのおかゆを買ってきてくれた。それでも私はタケルにどきどきしなかったし、向こうにも特別な感情はないようだった。それが、タケルにとっての当たり前のようだった。改めて、所詮、お隣さんである私はタケルにとって何者でもなかったのだ、と思う。一度タケルに部屋に招かれた時も、甘い雰囲気など微塵もなく、私が気になっていた作家さんの画集を見させてもらい、二人でキムチ鍋をつついて解散、隣室に帰るや否や即刻眠りについたことを思い出した。ただ、そんな関係が居心地が良かった。向こうの仕事の邪魔などしたことがない。具体的なアピールもしていない。けれど、タケルの部屋へと繋がる壁を毎日眺めるだけで何だかうれしかった。頑張って執筆をしているんだろう、彼の姿を想像して、穏やかな気分になった。
私は気がついたらタケルを好きになっていた。それは身長が1センチ伸びたくらいの、微妙な変化で、私はその瞬間を全く覚えておらず、とても戸惑った。
少女に夢を売る男に、まんまと買わされた、そんな気分にさえなった。
今だって、この目の前の男の頭についている紅葉を取って、そのさらさらの髪をぐちゃぐちゃにして、自分の鼻をうずめたい、そんな風に思うのに。その妄想の最後に映るのは、タケルの「どうしたらいいのかわからない」といったような、困惑と嫌悪が入り混じったような表情だけだった。
「もっと、きれいなものが書きたいのね」
「きれい?きれいって、言うのかな」
「リアルの愛はとても汚いものだと思うよ、自分勝手な、欲求」
「違うよ、それは汚いんじゃないよ、僕は、僕の見ているリアルが書きたくないっていう意味で、もっと、僕が求めているようなそれを現実世界で持っている人がいると思うんだけど、でもそれは僕には書けないわけで…・・・」
「じゃあ、タケルのリアルは何?」
「え?」
「タケルの書きたくない、タケルのリアルって、どんなの?」
「それは・・・・・・言いたくない」
「一生そのままでいるの?」
「なんでそんなこと、真央に言わなきゃいけないの」
タケルは、あ、という顔をした。
私はつん、と鼻が痛くなるのがわかった。何、してるんだろう、素直にそう思った。
私は俯いてから隣に座るタケルを見た。タケルは必死に言葉を探しているようで、口を中途半端にパクパクさせていた。が、そのうち、その口の動きが止まり、大きなまん丸の目がもっとまん丸になった。私がタケルの頭の紅葉を取り、そのまま髪を撫でたからだった。
「苦しそう」
タケルが言った。
「顔」
どうやら、私の表情のことらしかった。私は少し笑ってから立ち上がった。
「なんかくだらないことで言い争いしちゃったね。初めてじゃない?」