小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

むじーく ~Musik~(新見編)

INDEX|2ページ/2ページ|

前のページ
 

 通し終えたところで、加納は口元をへの字に曲げた。
「あのなぁ、プロじゃないんだから、ワザとらしい演奏するなよ。必要以上に溜め過ぎ。全体的に重い。それと、」
 演奏上の注意事項が別のパートから始まり、新見が中原に席の交代を頼もうと振り返る。
「やっぱり席を替わっ…」
「席を替わるのと、演奏に集中しないのは、関係があるのか?」
 新見の言葉に重なるように、中原が言った。
「え?」
 ゆっくりと彼が新見を見る。真正面から見据えられて、新見は身が竦んだ。
 その感情の起伏の乏しさから、中原さく也はしばしば「アイスマン」と称される。今もこれと言って表情には出ていないし、声にも抑揚はなかったのだが、それが却って何か含みを感じさせるのだ。
「全然、集中していなかっただろう? それはなぜ?」
「なぜって、その…」
「さっきも席がどうのって言ってたけど?」
「それは、僕がアウトだと中原さんが譜めくりをしなきゃなりませんし、」
「譜めくり? それが?」
「あなたに譜めくりさせるなんて失礼かと思って」
 中原の目が少し見開いた。
「インに座れば、誰だってすることだ」
「でも」
「そんなくだらないことで、演奏出来ないのか?」
 新見は答えられなかった。確かに自分は演奏に集中していない。中原とのプルトでアウトにいることの居心地の悪さと、素人丸出しの音を聴かれるかと思う恥ずかしさ、そればかりが先立って、演奏していると言う感覚がなかった。多分、普段の何分の一も弾けていないだろう。
 いつの間にか周りの視線が新見達に向けられていた。その中には指揮者の加納のそれも含まれている。
「どうかしたか、中原?」
 加納の言葉に、中原は「何でもありません」と答えた。
「じゃあ最初に戻って。ワルツIまで。何度も言うけど、四分の三の入り、気をつけろよ」
 再び指揮者の手が上がって、曲が始まった。




「何かあったのか? おまえ、全然集中してないじゃないか」
 休憩時間に新見は加納に呼ばれ、外階段に出た。踊り場には落葉樹の枝が伸びている。晩秋の午後の陽に照らされた残り葉が、見た目に寒々しく揺れていた。実際、体感的にも気温が下がっているのだが、呼ばれた理由がわかっている新見は、緊張で逆に身体が熱かった。
 あの後の練習も、新見は今一つ集中出来ていない。席云々のことよりも、中原に「くだらないことで」と言われたことが恥ずかしく、思うように弓が滑らなかった。ぎこちないボーイングがテンポを不安定にさせ、隣から聴こえる正確な演奏が更に焦りを呼んで悪循環となる。どうしようもなくて、ただ譜面を追うだけ。案の定、そんな演奏を指揮者が見逃すはずもない。
 事情を聞かれて、新見は正直に話した。
「確かにくだらないことではあるな」
 新見は顔を上げられなかった。加納の下振り(練習指揮)は音に容赦がない。演奏することに真摯であるかそうでないかを、的確に聴き分けるのだ。腑抜けた演奏について正指揮者以上に厳しく、その点で言えば今回の新見の体たらくは、加納を怒らせるには十分だと思われた。
 加納の声音は、新見の想像に反して穏やかだった。
「中原の隣は演りにくいか?」
 新見は言葉につまり、微かに頷いてしまった。彼の笑う声が聞こえる。新見はようやく顔を上げた。
「まあ、おまえの気持ちはわからないでもないよ。あいつの音は、そこら辺に転がっている音じゃないからな。多少抑えていても、ファーストを霞ませているのは確かだし。そんなヤツに譜捲りまでしてもらったら、俺だって恐縮して平静には演れないさ」
 彼はポケットから煙草を取り出すと、銜えて火を点けた。ここで二人が話し始めてから二本目である。
「でもな、中原だって八オケの一員だぞ。ここに来ている時間は、ソリストでも何でもないんだから」
「とてもそう言う風には思えません」
 中原さく也は、他の楽団員とは全然違う。自分の実績をひけらかすことはなかったし、お高くとまっているわけではない。極端に無口ではあったが、話しかければそれなりに応えが返った。しかし音、存在、何もかもに一種独特の雰囲気を持つ。世界最高の音楽を奏でるソリストの『気』が、彼を取り巻いている――と、新見の口から思わず、そんな本音が零れ出た。
「『みんなと合わせられるから、ヴァイオリンも練習した。今の自分が在るのはその延長線上なだけ』、これは中原の言葉だ。あいつはオケで演奏するのが好きなんだよ。ずっとソリストで来たわけじゃない。むしろオケ歴の方が長いくらいだ。中原は本当に楽しそうに弾いているぞ? 俺が頼んだから済崩しでここにいるんじゃないってことは、わかってやってくれないかな?」
「楽しそう…ですか?」
 新見は演奏中の中原さく也を思い出す。今日はまともに見ることが出来なかったし、呆れられた顔しか記憶になかったが、その他の練習で見かけた時も、『アイスマン』の綽名通り、さほど表情は変わらないように思えた。
 そんな新見の心の中が読み取れたのか、加納は「あれで、楽しそうなんだよ」と笑った。
「萎縮するばかりじゃなく、あの音が只で聴けてラッキーってくらいに思えよ。本物の音を聴けるんだから、悪い影響は受けないはずだ。実際、今日のセカンドの出来は良い具合だぞ? 新見はそれどころじゃなかったろうけどな」
 二本目の吸殻を携帯灰皿に入れると、加納は間を置かず三本目を口にした。
「せめて今日の居心地の悪さくらいは何とかするか。席の件は俺から話しておくから、おまえはインに座ってろ」
「ありがとうございます」
 加納が笑った。
 若い新見は感情が顔に出やすい方だった。加納が中原に話してくれると聞いて、頬の緊張は素直に緩んだ。彼の笑みはそれに気づいてのことだろう。
「火、点けたばっかなのに」
 新見の肩越しに廊下の方を見て、何の脈絡もなく加納が言った。火とは煙草のそれのことだ。彼は名残惜しそうに火を消すと、灰皿の中に突っ込んだ。
「エツ」
と言う声が、新見の背後で聞こえた。
 振り返ると中原さく也が外階段入り口のところに立っていた。さきほどの練習での件で新見同様、彼もまた加納に呼ばれたのだろう。
「二本吸ったことは内緒だぞ」
 加納が小声で言った。彼が最近、喫煙回数を減らす努力をしていることは知られていた。続けざまに煙草を二本吸ったことや三本目に火を点けたことを、友人の中原さく也に知れるのはバツが悪いと見える。そんな加納の表情を見て、新見もやっと笑顔を作る余裕が出来た。
「じゃ、僕はこれで」
 新見が頭を下げると、加納は頷いた。自分と入れ替わりに踊り場に出てくる中原にも会釈する。彼も浅く頭を下げた。すれ違う際の空気は、やはり違う気がした。
 席の件だけでも解決されれば、少しは落ち着ける。加納の言う通り、類稀な音を隣で聴ける幸せを感じられるかも知れない。現金なもので、あれだけ気が重かった後半の合奏練習の時間に、早くなればいいと思う新見であった。