長い夜
冴子の視線がちらりとこちらに向く。声には出さなかったが「見ないでよ」とで言いたそうな目つきだ。文句を言われる前に、視線を夜空へ逸らした。
数時間前には凛子に魅了され、今では冴子に魅力を感じている。いったい、俺はどうかしちまったのだろうか。
「じゃ、あたしらそろそろ行くわ」
タバコを吸い終えると、冴子は運転席へ潜り込んだ。
「じゃあ、気をつけて」
助手席の凛子が再び敬礼のポーズをとって軽くウィンクをした。
「そのセリフは二度目だな」
「三度目がなきゃいいけどね」
相変わらず冴子は一言多い。
思わず顔が引きつったが、これだけ世話をしてもらって文句を言うわけにもいかなかった。おまけに市内の地図までも貰ってしまった。三年も前の物なので、少し変わってしまったところもあるらしいが、大した問題ではないだろう。ありがたく頂くことにした。ついでに、外科のある病院も何ヶ所かチェックしてくれていた。先ほど、ナビで凛子が調べたようだ。散々な目にあったが、結果、いたれりつくせりとは、なんという運命のめぐり合わせだろうか。
「ありがとうな。いろいろと」
二人への最後の挨拶。
長いセリフはいらない。心からの気持ちを「ありがとう」の一言に込めたつもりだ。
凛子は握手を求めてきた。俺は快く右手を差し出し、握手をした。続けて運転席側に周り、冴子にも握手を求めたのだが「私はいいわ」と断られた。
差し出した手を引っ込めるもの癪なので、ドアに肘をついていた冴子の手を無理やりつかんで握手した。
少し嫌そうな顔をしていたが、握手に答えてくれた。凛子よりも柔らかくも、冷たい手だった。
そしてやはり、ウェットティッシュでその手を拭いたのだった・・・・・・。
「ごめんね、お姉ちゃん、男に対して潔癖だからさ」
助手席の凛子が手を合わせ、苦笑いをしながらフォローした。
「悪かったな」
「いいよ。早くちゃんとした病院で診察してもらうんだよ?」
「ああ」
「あたし、外科医だけど獣医だからさ」
「は?」
「じゃあな!」
捨て台詞を残し、冴子のワゴンRは大きな排気音と共に踵をかえし、Uターンをした。
「気をつけて!」
凛子がボンネットまで身を乗り出して手を振る。
「おうよ」
向かい風にも負けない大きな声で、俺はそう答えた。
二人は明らかに法廷速度を越えたスピードで土手を走り抜けていった。ターボ車独特の排気音があたりにこだまする。
すれ違い様、冴子が笑ったような気がしたが、気のせいだろうか?
徐々に消えていく排気音。音が完全に消えるまでその場を動かなかった。
ヘッドライトの恩恵を失い、あたりは再び、暗闇に包まれた。
風が止んだ。揺れてたなびいていたススキもいっせいに整列する。
気がつくと、手の痛みは退いていた。早速、飲んだ鎮痛剤が効いてきたのだろう。
獣医というのはきっと冴子なりのジョークに違いない。
左手でタバコを取り出し、火をつけた。
メンソールの刺激が、心地よかった。
終